曼珠沙華  第五章


 翌日はひどい二日酔いだった。昨日よりもっと黄色く見える太陽にぼうっとしているオレを見て、ブレダが心配して声をかけてくる。
「おい、大丈夫か、ハボ。すげぇ顔してるぜ」
「んー。昨日ちょっと飲み過ぎた」
 ブレダはオレのことをじっと見つめたが、それ以上何も聞かないでいてくれた。その日は大きな事件もなく、正直ちょっとホッとする。いざとなれば動ける自信はあるが、それでも万全とは程遠いこの状況での事件は勘弁して欲しかった。
 漸う夕方まで乗り切ってこれでとりあえず休めると思った時、執務室から出てきた大佐が妙に上機嫌なのに気づいてオレは大佐に声をかけた。
「会食がキャンセルになってな」
 そう言う大佐にデートなのかと聞けば嬉しそうに頷く。その楽しそうな顔に胸が締め付けられる思いがした。
「ハボック、車を回してくれるか」
 オレの胸の内など気づきもしない大佐が言う。「Yes, sir!」と答えて足早に司令室を飛び出すことで、嫉妬に醜く歪んだ顔を曝すまいとした。いつものように花屋で花束を受け取って大佐をデートの場所まで送り届ける。満面の笑顔で大佐を向かえる女性をくびり殺してやりたい衝動を抑えて、車を司令部に戻したオレが向かった先は昨夜ジーノという男に連れられていったバーだった。何も考えたくなくて、とにかくアルコール度数の高い酒ばかり注文する。だが思いに反して酔いはちっとも訪れてくれなかった。そうしてどれくらい時間が過ぎたのだろう、酔いの回らない体にこの店の酒はまがい物なのではと文句をつけてやろうと思った時、背後から伸びてきた手がオレのグラスを押さえた。
「無茶な飲み方は感心しないな」
 そういう声に見上げればジーノがオレを見下ろしている。その心配そうな瞳に色にオレは苛立ちを感じてグラスを奪い返すとグイと煽った。
「アンタに関係ないだろう。大体なんでここにいるんだよ。あっち行けよ」
 後半の部分は単なる八つ当たりだ。そう判っていても言葉が唇から零れるのを止められなかった。
「ここ、俺の知り合いの店なんだよ。アンタが来てるって教えてくれたから」
 ジーノはそう言うとオレの隣りに腰掛ける。昨日と同じ酒を注文すると、オレの顔を見た。
「どうした?機嫌悪いな。フラレたのか?」
「…そんなんじゃない。大体アンタに関係ないだろ。あっち行けって」
 だが、そう言ってもジーノはただ静かにグラスに口をつけるだけだ。何も言わずに見つめてくる視線が痛くて、オレは乱暴に立ち上がった。その視線を避けるように急いで会計を済ますと店の外へと出る。小走りに走る俺は、急激に回ってきた酔いに道端にしゃがみ込んだ。胃の中からせり上がってくるものにグウと喉を鳴らして吐き出したものの、出てきたのは胃液とアルコールだけだった。ケホケホと喉を通る苦さに咳き込むオレの背に誰かがそっと触れて、オレはギョッとして飛び上がった。振り返ればジーノが眉を顰めてオレの背を擦っている。
「大丈夫か?」
 労わるような声音が辛くて、オレはその手を思い切り振り払った。
「煩いなっ!ほっとけよっっ!!」
 そう怒鳴って勢いよく立ち上がった途端、目が回ってグラリと体が傾ぐ。伸びてきた腕がガッシリとオレの体を支えて、オレは思わずその腕に縋りついた。
「…こんなになってんの、ほっとけねぇだろ」
 ジーノはそう言ってオレの腕を肩に回すとオレの体を支えて歩き出す。もう、振り払う気力もなくて、オレはジーノに体を預けたままゆっくりと歩き続けた。


 程なくして行き着いたところはボロいアパートだった。ガンガンと鉄製の階段を鳴らして2階の端の扉までいくとジーノは鍵をあけてオレを中へと通す。狭い廊下を通って寝室へ入りジーノはオレをベッドへと下ろした。上着を脱がせ靴を取るのをぼうっとして見ていると、ジーノはオレの足をベッドの上に上げて横にならせてくれた。
「水、持ってくるから」
 ジーノはそう言って寝室から出て行ったと思うと、すぐに水の入ったグラスを持って戻ってくる。頭の下に手を入れて少し体を持ち上げるとグラスを口につけるので、オレはほんの少し水を飲んだ。そうしてまたオレの体を横たえると、ベッドの脇にスツールを引っ張ってきてそこに座る。じっと見つめてくる視線を遮るように顔を腕で覆ったオレにジーノが言った。
「何があったんだ?」
 無理強いするわけでも、興味本位で聞いているのでもない、優しい口調。オレは震える息を吐き出すと呟くように言った。
「デートなんだってさ」
「デート?」
「モテるから、あの人。いつもオレが送っていくんだ、デートの場所まで。途中で腕いっぱいの花束買って、綺麗な女の人のところまで」
「お前に送らせるのかよ、最低だな」
 ムッとした様に言うから思わずくすりと笑ってしまった。
「だってあの人はオレの気持ちなんて知らないし、それにオレはあの人の護衛官だから」
 仕事だから、と言うオレにジーノはぼそりと言う。
「お前が好きなのってマスタング大佐か」
 思わず腕の下からジーノを見ればオレの視線に気づいて苦笑した。
「この街であの人を知らないヤツはいないだろう?この間見たとき、そうかなとは思ったんだけどな。あんな店に来ると思わなかったし」
「気さくな人なんだよ」
 オレはそう言うとそっと目を瞑る。そんなオレを見下ろしてジーノが言った。
「そんなに好きなら言っちまえばいいだろう」
「ロイ・マスタング大佐相手に?言えるわけないじゃん」
 吐き捨てるように言うオレにジーノは言う
「言ったら何か変わるかも知れないだろう?」
「何が変わるって言うんだよ。変わるとしたらオレがあの人の部下でいられなくなるってことぐらいだろ」
 オレはそう言うと手をついてベッドから起き上がった。足を下ろして靴に突っ込むとふらりと立ち上がる。
「帰るのか?」
「ああ。…迷惑かけて悪かったな」
 ベッドにおいてあった上着を手に取ると玄関へと出て行くオレの後をジーノがついてきた。扉を開けて外へ出ようとした時、ジーノがオレに声をかける。
「何かあったらまた来いよ。どっちかの店にいるし、ここに来てくれてもいい」
 振り向いたオレにそう言うジーノの瞳が黒じゃなくて濃い茶色だと気づいてオレは思わず笑った。そのまま何も言わずに出て行こうとするオレをジーノがもう一度引き止める。
「おい、名前くらい教えろ」
 そう言われてそう言えば名乗っていなかった事に気づいた。
「ハボック。ジャン・ハボック」
 そう言えばジーノは確かめるようにオレの名を繰り返す。そんなジーノに背を向けて今度こそ歩き出した。来た時と同じように階段を鳴らして下りていくオレに、ジーノがその音に負けないような大声で言う。
「ジャン!何かあったら本当に俺んとこ来いよ!いいな!」
 碌に知りもしないオレにどうしてそんなことを言うんだろう。大佐と似た色合いでそんな風に言わないで欲しい。ふと浮んだそんな思いに、オレは振り向きもせず階段を駆け下りていった。


 胸にもやもやとスッキリしない想いを抱えて、オレは夜の道を歩いていく。ふと見上げれば、この間よりもっと欠けた月が天空に浮んでいた。ぼんやりとその月を見上げていたらあの夜の月の光を浴びた大佐のことを思い出して無性に大佐の顔が見たくなった。オレはアパートに向かっていた足を大佐の家へと向ける。ゆっくりだった足取りは次第に早くなって、しまいには駆けるようになっていた。酔いにもつれる脚を必死に動かして大佐の家へとたどり着く。柔らかい光が漏れる窓に、大佐がもう家に戻ってきているのが知れてオレはホッと息を吐いた。顔が見たいと思ったけれど実際には扉を叩ける筈もなく、オレは大佐の家が見える植え込みの根元にドサリと腰を下ろす。
「たいさ…」
 そう呟くだけで胸が締め付けられるように痛んだ。
『そんなに好きなら言っちまえばいいだろう』
 ジーノの言葉が浮んでオレは顔を歪める。
「言えるわけないじゃん…」
 ため息と共に言葉を吐き出すと、オレは抱えた膝に顔を埋めた。



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