曼珠沙華  第三章


 司令室に戻れば今日はもうそこには誰もいなかった。大部屋を通り抜け執務室の扉をそっと開ける。扉の隙間から中へ滑り込むとパタンと扉を閉じた。扉に寄りかかったまま目の前の大きな机を見る。今日は珍しく殆んど書類の残っていないそれに近づくと表面にそっと指を這わせた。机の上をなぞり、それから袖のついた大きな椅子の背を辿る。いつもここに座っている人の体温が残っているようでオレは何度も指を這わせた。それから椅子を引くとちょっと躊躇ってから椅子に腰を下ろす。背もたれに寄りかかって袖に両腕を預けて目を閉じれば、大佐に体を預けているような気になった。
 どうしてこんなに好きなんだろう。そんなことを思って自嘲する。どうしてなんて考えるだけ無駄だ。ロイ・マスタングという強烈な個に引き寄せられてあっという間に魂を焼かれてしまった。今更逃げることなんて出来ない。たとえどんなに辛くて苦しくてもオレはあの人の側であの人を見つめ続けるしかないから。
 オレはギュッと椅子の袖を握り締めて、ただ大佐のことだけを考え続けていた。


 そのままオレは転寝をしていたのかもしれない。カチャリと扉の開く音に閉じていた目を開ければ、そこには驚いた顔をした大佐がいた。
「たっ、たいさっ?!」
「ハボック、お前、何をしてるんだ、そんなところで。ダブルデートじゃなかったのか?」
 不思議そうにそう聞く大佐にオレは椅子から立ち上がると慌てて答える。
「いやっ、その、仕事残ってんの思い出して…んで、その、ちょっと眠くなっちゃったから…」
 大佐の椅子は寝心地いいかなぁって、とへらりと笑えば大佐が呆れたような顔をした。
「そういう大佐こそどうしたんスか?会食、終わったんでしょう?」
 それ以上追求されたくなくて問い返せば大佐が答える。
「ああ、本を忘れてしまってな」
 大佐はそう言うと机の引出しをあけて本を取り出した。
「わざわざその為だけに戻ってきたんスか?」
 本なんて別に明日だっていいのに。呆れたオレの声に大佐が苦笑して答える。
「読み途中だったからな、気になったんだよ」
 大佐はそう言うと本を小脇に抱えてオレを見た。
「お前は?もう帰るのか?」
「あ、はいっ。お送りします」
 中尉が大佐を一人で帰すわけないから車を待たせているのかと思いつつそう言ってみると、大佐はちょっと小首を傾げて考えるとオレに向かって言った。
「せっかくだから一緒に飲みに行くか?」
「えっ?」
「どうせメシもまだなんだろう、一緒に行かないか?」
「や、でも…」
 誰かと一緒ならともかく二人きりで飲みにだなんて。オレが返事をしかねてウロウロと視線を彷徨わせていると大佐がくすりと笑う。
「心配しなくても奢ってやる」
 そんな風に言われたら表向き断る理由がなくなってしまう。
「行くぞ、ハボック」
 大佐は目を細めて笑うと、オレが断るはずなどないと判っているかのようにさっさと部屋を出て行ってしまう。オレは小さくため息をつくと、仕方なく大佐の後を追ったのだった。


 大佐が向かったところは洒落たレストランなどではなくて、以前みんなで飲みに来たことのあるちょっと隠れ家的な店だった。居酒屋よりはもう少し品のいい、だがかしこまった感じはしなくてあの時大佐が結構気に入っていたことを思いだす。できればテーブル席の方がいいと思っていたのに大佐はさっさと奥のカウンターに陣取ってしまう。カウンターだと肩がくっつきそうな距離だから嫌なのに。でも、テーブル席がいいという理由も思いつかなくて、オレは仕方なしに大佐の隣りのスツールに腰掛けた。
「何にする?」
「えと、ビールを」
 この後大佐を一人で帰すわけには行かないのだからそんなには飲めないだろうとオレはそう注文する。大佐は自分の分の飲み物と一緒にいくつかつまみになるものを頼んだ。程なく置かれたグラスを手にオレは正面の棚に並んだボトルを睨みつけるように見つめていた。
「仕事が残ってたってそんなに急ぐものだったのか?」
 そう聞かれてオレは「はあ」とか「まあ」とか曖昧に答える。ホントは仕事なんかなくて、ただ絶対興味を持てるはずもない女の子に会いに行くのが嫌だっただけだって言ったらどうするだろう。ホントはアンタが好きだから女の子なんて紹介されたくなかったって言ったら。
「大佐は?会食、どうでした?」
 そう聞けばむぅと唇を歪めたのが顔を見なくても判った。
「判りきってるだろう、聞くな」
 どうせまたあからさまなおべっかやなんかを延々と聞かされてきたに違いない。
「大佐なんて肩書き持ってる人の宿命っスよ」
 くすくすと笑ってそう言えば大佐が小さく舌を鳴らした。
「全くあんなじじいどもの話を聞くより綺麗なご婦人と話をした方がずっと役に立つというのに」
 ウンザリしたように言うから、思わずさっきより声を上げて笑えば大佐がオレの方を見て言う。
「お前こそ仕事なんぞしてないでせっかくのダブルデートに行けば良かったのに」
「大佐、それ、上司のセリフじゃないっスよ」
 真面目に仕事してる部下に言うセリフじゃない、と呆れたように言ってやる。何気ない大佐の言葉に深く傷ついたのを隠して。大佐にしてみればオレがどんな女の子と付き合おうと、そんなの気に留めるようなことじゃないもんな。そんなの判りきっているのに改めて言われると凄くこたえた。
「この先1週間は会食続きだ」
「ご愁傷様です」
 デートする暇もない、とぼやく大佐にそう言いながらオレは胸を撫で下ろす。デートがなければ昏い嫉妬に苛まれずに済む。オレは大佐と当たり障りのない会話を続けながら、ほんの数センチ隣りに座る人の体温を感じて震える手をぎゅっと握り締めたのだった。


 一人で帰れると言った大佐を、そんなことをしたら中尉に殺されます、と言って半ば強引に家まで送る。まだ結構人通りのある道を通って、大佐の家へと向かった。住宅街に入って流石に静まり返る通りを靴音を響かせて歩く。背筋をピンと伸ばして歩く大佐の足音はなんだか小気味悦くて、そんなものまで人とは違うのかと思った。
「今夜は十六夜だったな」
 そう言う声に空を見上げれば満月に少し欠けた月が煌々と光を放っている。足を止めて月を見上げるその面を、オレはじっと見つめた。そうしてるだけで胸が苦しくて吐き出す息が震えてしまう。暫く月を見つめていた大佐は視線を落とすとオレの方を振り向いた。漆黒の瞳に見つめられてオレは身動き1つ出来ない。月の光を浴びて佇む大佐は全身が淡く光って凄く神々しかった。金縛りにあったように動くことの出来ないオレに大佐はフッと微笑むとオレの髪に手を伸ばす。
「普段は蜂蜜色なのに月の光の下だと銀色に見えるな」
 そう言って髪をくしゃりとかき回す手に息が止まりそうだった。
「やめてくださいよ、子供じゃないんだから」
 オレはなるべくなんでもないようにそう言うと大佐の手から逃れるように身を引く。大佐はくすりと笑うと再び歩き出した。その背を慌てて追いかければ大佐が肩越しに振り向く。何か言うのかと思ったが、大佐は何も言わずに視線を前へと戻すと歩き続けた。そのまま何も言葉を交わさずに歩いて大佐の家に到着する。、大佐はオレの方を見ると微笑んで言った。
「今日はつき合わせて悪かったな」
「いやその、ご馳走様でした」
 慌てて礼を言うオレに大佐は目を細める。
「お休み、ハボック」
「おやすみなさい、大佐」
 大佐が家の中に入り鍵をかけて灯りを点けるのを確認すると、オレは踵を返した。そうして泣き出したい気持ちを抑えて夜の道を全速力でアパートへと駆けていったのだった。


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