曼珠沙華  第二章


「おはようございます、大佐。」
「おはよう、ハボック。」
 オレに答えて執務室に入っていく大佐は今日も颯爽としている。昨夜は夜通し美人の女優と一緒に過ごしたんだろうかなんて下世話なことを考えながらオレは書類を抱えて執務室の扉を叩いた。
「失礼しまぁす。」
 大佐の返事を待たずに扉を開ければ、大佐が僅かに眉を顰めてオレを睨みつける。
「返事を聞いてから入って来いと言ってるだろう。」
 だがオレはへらりと笑うと大佐に書類を差し出した。
「これ、急ぎでサイン貰いたいんスけど。」
 そう言えばそれ以上文句を言わずに書類を受け取り目を通し始める。その長い睫が頬に影を落とすさまが綺麗だなどと考えながらじっと見つめていたら大佐が不意に顔を上げた。
「ハボック、字が間違ってるぞ。」
「えっ、マジっスか?」
 大佐の綺麗に爪を切りそろえた指が指す先を見れば確かに見事な誤字が並んでた。
「わ、後で直しておきます。」
 オレが慌ててそう言えば大佐はおかしそうに目を細めてオレの前髪を引っ張った。
「ったく、小学生並みだぞ。」
「ひでぇっスよ、それ。」
 オレは唇を尖らせながら身を引いて大佐の指から髪を引き抜く。頼むからそんな不用意に触れないでくれ。オレがそんなことを考えているなんて思いもしないのだろう、大佐は手を伸ばすとオレの前髪をかき上げた。
「わっ、何するんスかっ」
「髪くらい梳かしてこい。跳ねてるぞ。」
「こういうアレンジなんスよっ」
 ドキドキと高鳴る鼓動を隠しながらそう喚く。紅くなったりしたら変に思われると考えたけど、それでも頬に熱が上がるのを止められなかった。
「ほら、出来たぞ。」
 だが、大佐はそんなオレの様子など気にもしない風にサインをしたためるとオレに書類を突き返す。オレは前髪を整えるフリをして火照る頬を隠しながら書類を受け取った。逃げるように執務室を飛び出し、バタンと扉を閉じるとホッと息を吐く。乱暴にしまった扉に顔を上げたブレダがオレを見て言った。
「どしたよ、ハボ。顔が紅いぞ。」
「えっ?あ、いや、ちょっと暑くねぇ?この部屋。」
「そうか?涼しいくらいだろ、今日は。」
 きょとんとするブレダにそれ以上何か言う言葉が思い浮かばず、オレは書類を持って司令室を飛び出したのだった。

 そのまま書類を提出して、オレは中庭へと足を向けた。まだ色づく前の、だが夏の緑とは微妙に色を変え始めた葉を湛える木の下に腰を下ろすと、煙草を取り出して火を点ける。ぼんやりと空に上っていく煙を見つめて、コツンと木の幹に背を預けた。
「ヤバイだろう、あれは…。」
 大佐に髪の毛を弄られたくらいで紅くなるなんて、今時小学生だってそんなヤツいやしない。そもそもあんな風に紅くなったりしたら怪しまれてしまう。
「ブレダにも言われちゃったし。」
 オレの幼馴染でもある同僚の男は、その外見からはちょっと想像がつかないがとても頭の回転が速くて鋭い。オレはガキの頃からブレダには絶対に隠し事が出来なくて、全部バレてしまったものだ。
「気をつけなくちゃ…。」
 こんな不埒な想いは誰にも知られちゃいけない。誰にも知られずオレの心の奥深くにしまって墓場の中にまで持っていかなくてはいけないんだ。オレは煙と一緒にため息を吐き出してそっと目を閉じる。途端に大佐の姿が瞼に浮んでオレはギュッと拳を握り締めた。
「たいさ…」
 空気の動きにすらならない、音にすらならないような声でオレは大佐のことを呼ぶ。あの人のことが好きで好きで好きで。
 オレの中はあの人への想いでいっぱいになっていて、ほんの少しでも揺すったら零れてしまいそうなのに。墓場まで持って行かなくてはいけない想いだと、理性ではそう判っていても時折叫びだしたくなる。でも、そんなことしたらこうして大佐の側にいることすら出来なくなってしまうのだろう。オレは自分の体をギュッと抱きしめて、零れ落ちそうになる想いを必死に内に押し留めようとした。

司令室に戻ると大佐の姿はなかった。そういえば今日は会議があるとかぼやいてたっけ 。あの人、ホント会議とかってキライだよなぁ。もっともイヤミばかり言うクソじじいどもの相手だなんてオレだって嫌だけどさ。
「なあ、ハボ。お前今日は定時で上がれそうか?」
 席につくとブレダが向かいの席から話しかけてくる。オレはガタガタと椅子を引きながら答えた。
「いや、急ぎの書類は出したし、事件でもない限りフツウに帰れると思うけど。」
「そうか。だったらこの間言ってた女の子、紹介してやろうか。」
 ブレダに言われてそう言えばそんなこと言ってたなと思い出した。今ブレダはカフェの女の子とお付き合いしているのだが、その友達で可愛い子がいるから紹介してやるというのだ。
「ふうん。女の子ね…。」
「んだよ、お前彼女欲しいとか言ってたろ。俺も一度会ったけど、イイコだしお前好みのボインだぜ。」
 そりゃボインは好きだけど、今は誰かと付き合う気になんてとてもなれそうにない。でも、ブレダはそんなオレの気持ちになんてお構いなしで続ける。
「とにかく一度会ってみろよ。絶対気に入るから。」
 ブレダはそう言うと今夜の予定をさっさと決めてしまう。かくしてオレはブレダとその彼女、そしてその友達の女の子と四人で飲みに出かける事になったのだった。

「なんだ、もう上がりか、二人とも。」
「あ、はい。大佐はこれから会食でしたっけ。」
 執務室から出てきた大佐に声をかけられてオレはそう答える。大佐は今夜、市議連中との会食が入っているはずだ。
「大変ですね、まあ頑張ってきてください。」
ニヤニヤと笑って言うブレダを大佐はジロリと睨む。
「随分楽しそうだな、少尉。」
「俺とハボックはこれからダブルデートなんで。」
「ブレダ、んなこと言わなくても…。」
 嬉しそうに言うブレダの脇腹を肘で突いてオレは言ったが、大佐は「ほう」と軽く答えただけだった。
「羽目を外して振られないようにしたまえ。」
 そう言うと中尉と一緒に司令室を出て行ってしまう。その背を見送りながら、オレは落胆にも似た気持ちを味わっていた。そりゃそうだよな、大佐にしてみりゃオレがプライベートの時間に誰と会おうとそんなの気にするようなことじゃない。そんなこと判りきっていた筈なのに、あまりにも素っ気ない態度に酷く傷ついてオレは唇を噛み締める。
「おい、ハボ。行こうぜ。」
 そんなオレの落胆振りに気づかずにブレダはそう言うと司令室を出て行く。オレは上着を掴むとブレダの広い背中を追いかけて司令室を後にした。

 司令部の建物を出ると、ちょうど大佐が車に乗り込むところだった。その綺麗な横顔をじっと見つめていたら、大佐がふとこちらを振り向く。オレと目が合った瞬間フッと微笑んで大佐は車に乗り込むとそのまま行ってしまった。オレはと言えばバクバクと鳴る心臓を抱えたまま建物の入口で固まったまま動けなくなってしまう。あんなの、反則だ。あんな顔してオレに笑いかけるなんて。大佐がオレのことなんとも思ってないの判っていても、それでもあんな風に笑われたら一瞬期待しちまう。そんなことあるわけないって判っているのに。
「チクショウ…。」
 そうぼそりと呟いてオレは片手で目を覆った。入口のど真ん中で突っ立っているオレを、出入りする人たちが邪魔だとばかりに押しのける。何度も押されてそれでもそこからオレは足を踏み出すことが出来なかった。
「おいっ、ハボ!何やってるんだ、行くぞ!」
 階段の下から叫ぶブレダの声に、オレは咄嗟に言い返していた。
「ごめん、オレ、仕事残ってるの思い出した。今日はわりいけどパスする。」
「えっ?おい、ハボっ?!」
 驚くブレダを置き去りに、オレは身を翻すとたった今出てきた建物の中へと引き返していた。


→ 第三章
第一章 ←