近くて遠いあなた  第八章


「大佐。この件なんですがね」
 そう言ってブレダが差し出す書類を受け取りロイは素早く目を通していく。一通り目を通すと、幾つか気になる点が、と話し出すブレダの言葉に耳を傾け、ああだこうだと話し始めた時。いきなりバタンと開いた扉にロイとブレダは驚いて覗き込んでいた書類から顔を上げた。扉の方へ目をやればハボックが入口に立っている。扉を開けたきり何も言わないハボックにロイが眉を顰めて言った。
「なんだ、ハボック?急ぎの用事か?」
 そう尋ねてもハボックはすぐには何も言わなかったが、少ししてゆっくりと口を開く。
「いえ、話、長いけどどうなったのかなぁって思ったんで」
「長い?5分も話してねぇだろ?」
 ハボックの言葉に驚いたように目を見開いてブレダが言った。ハボックはそんなブレダに視線を向けて言う。
「そんなことないだろう?もう随分経つぜ」
 平坦な声でそう言うハボックにブレダが尚も何か言おうとした時、ロイが二人の会話に割り込むようにして言った。
「今打ち合わせ中だ。まだもう少し時間がかかる。何かあるならもう少し後にしてくれ、ハボック」
 ロイの言葉にハボックはロイの顔をじっと見つめたが何も言わずに執務室を出て行く。開け放たれたままの扉の向こうでハボックが自席につくのを見て、ロイが小さく息を吐き出すのと同時にブレダが軽く舌打ちした。
「あんにゃろ、ドア開けっ放しで行きやがった」
 別に内密の話ではないが、大部屋の騒めきは聞こえない方が集中できるとブレダが扉を閉めようとするとロイが言う。
「いいから、開けっ放しにしておいてくれ、少尉」
「え、でも…」
「構わん。それで、なんだって?話を続けてくれ」
 促すロイにブレダは一瞬押し黙ったが、机のところに戻ってくると話を再開した。ロイはなんでもないような顔でブレダと打ち合わせを続けながら、ハボックの視線を痛いほどに感じていたのだった。

「マスタング大佐」
 一緒に廊下を並んで歩いていたハボックはロイを呼びとめる声に足を止める。ロイが声の主の方へ歩み寄って話を始めるのをハボックは昏い瞳で見つめていた。親しげに話すその相手が、別れ際にロイの肩をポンポンと叩くのが目に入ると途端にざわりと胸の奥底に不穏な何かが頭をもたげようとする。唇を噛み締め、爪が刺さるほど手を握り締めたハボックのところに戻ってくると、ロイは不思議そうな目でハボックを見上げた。
「どうした、ハボック?気分でも悪いのか?」
そう尋ねる黒い瞳にハボックは目眩がする。
「いいえ、何でも…。何でもありません」
 搾り出すようにそれだけ言うとハボックは廊下を歩き出したのだった。

 仕事を終えてアパートに帰ったハボックは明かりもつけずにソファーにドサリと腰を下ろす。頭を抱え込むと何度も深呼吸をするように荒い息を吐いた。
 たとえ打ち合わせでしかなくても誰かがロイと一緒にいるだけでハボックには耐えられなかった。誰かが親しげにロイに話しかけるのも、その目にロイを映すのも、何もかもが耐えられなくて。
「くそ…ッ、……クソッッ!!」
 そうして相変わらずロイは自分に対して全面的な信頼を寄せてくれる。普通であるなら無礼としか取れない態度にも目を瞑り、好きなようにさせてくれている。だが、それこそがハボックをどれだけ傷つけ、苛立たせているのか、ロイ自身気付いているのだろうか。
「たいさ……たいさッ」
 暗闇の中、ハボックは血を吐くような声でロイの名を呼び続けたのだった。

「ハボック、今日は仕事の後何か用事があるのか?」
「いえ、特にないっスけど」
「だったら悪いが少し手伝って欲しいことがあるんだが」
 そう言うロイをハボックが黙って見つめればロイが苦笑交じりに言う。
「別段難しい事じゃない。以前古書店に頼んでいた本が今日、大量に届く予定でな。すまんがそれを書斎に運び込むのを手伝って欲しいんだ」
「本を書斎に?」
「ああ、お前なら力も上背もあるからな。頼むよ」
 そう言って鮮やかに笑うロイをくびり殺してしまいたいなどとハボックが考えていると誰が思うだろう。
「判りました。それじゃあ帰りに大佐んち寄りますよ」
「ありがとう、ハボック」
 にっこりと笑うロイをハボックは黙ったままただ見返していた。

「凄い量っスね」
 玄関先に積まれた箱の山に流石のハボックも呆れたように言う。ロイは照れたような困ったような笑いを浮かべて答えた。
「ずっと捜していた錬金術師の本が纏めて売りに出ていてね。思わず買ってしまったんだ」
「アンタらしい」
 ハボックはそう言うと箱を一つ抱えあげる。
「書斎、奥でしたね」
「ああ、突き当たりの右手だ」
 ロイの言葉にハボックは抱えた箱を奥へと運び込んだ。何往復かして箱を全部運び込むと、今度は包みを解きロイの指示通りに本棚へと収めていく。もう、必要のなくなった本を代わりに箱に詰めて入れ替えてしまうと、ロイがハボックに言った。
「ご苦労だったな、疲れたろう」
「いえ、大した事ないっスから」
 ハボックはそう答えると書斎を出ようとする。その時、ふわりと鼻先を掠めた匂いに凍りついたように足を止めた。
「ハボック?どうした?」
 不思議そうに聞きながら近づいてくるロイにハボックは慌てて懐の煙草へと手を伸ばす。本の整理をする間吸えずにいたそれを口にしようと、取りだしたパッケージが空である事に気付いて、ハボックは目を見開いた。
「どうした?」
 そう言ったロイにやんわりと腕を掴まれてハボックはビクリと体を震わせる。まるで警戒心の欠片もなくハボックを見上げる黒い瞳にハボックは唇を歪めた。
「……なんでアンタ、そうなんスか」
「え?」
「オレが以前、ここでアンタに何したか、忘れちまったわけじゃないでしょう?」
 そう言えば僅かに目を見開くロイにハボックは顔を顰める。自分の腕を掴むロイの手をグイと引き寄せるとその細い体を腕の中に抱きこんだ。
「オレの気持ちはあの時からこれっぽっちも変わっちゃいない。いや、むしろもっともっとメチャクチャにして、自分のもののにしたいとすら思ってんのに」
「ハボ…ッ」
 グイと引き寄せられたかと思うと噛み付くように唇を塞がれてロイは目を見開く。逃れようともがけば、逃すまいとするハボックともつれ合うように床に倒れこんだ。
「ハボックっ!!」
 圧し掛かってくる男にあの時の痛みがまざまざと蘇えってロイは悲鳴をあげる。振り上げた手で思わずハボックの頬を叩けば、ロイを押さえつけるハボックの動きがピタリと止まった。
「ハボック…?」
 金色の髪に隠れて表情のよく見えない男にロイは恐る恐る声をかける。その声にハボックはロイを見つめると搾り出すように言った。
「オレをどっかにやってください。アンタに触れたくても手の届かないどっか遠く。最前線に送って、大佐。でないとオレ、またアンタに同じ事繰り返しちまう」
「ハボック…」
「もう、ダメなんスよ、オレ。どっか狂ってるんだ。自分じゃどうしようもないんス…、いっそアンタの焔で燃やしちまって…ッ」
 搾り出すように苦しげに言葉を吐き出すと、己の上に突っ伏してすすり泣くハボックにロイは呆然と目を見開く。暫くの間何も言わなかったロイは、やがてひとつ瞬くとハボックの金色の頭をやんわりと抱き締めた。


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