月の鏡  第二章


『お前また下男を追い出しただろう』
「出すぎた事を言うからだ。それに下男なんていらない。自分のことは自分で出来る」
 そう言えば受話器を通して聞こえるため息に、ハボックは苛々と煙草の煙を吐き出した。
「何の用だよ、ブレダ。用があるならさっさと言え」
『用件なんて判ってんだろ、ハボック』
 そう聞けばハボックの唇から吐き出される煙の量が増える。
「判んねぇ、つか、聞きたくない」
『ハボ!』
 まるで子供のような言い方をするハボックをブレダが宥めるように呼んだが、ハボックはそれ以上なにも言わずに電話を切ってしまった。
「くそ……っ」
 ハボックは咥えていた煙草を灰皿にグリグリと押しつける。フゥと大きなため息と共に残っていた煙を吐き出すと、窓の外へと目を向けた。もうすっかり暮れた空は深い藍色に染まって星が輝いている。後もう少しすれば東の空から満月が上ってくる筈だった。ハボックは部屋を出て二階に続く階段を上がる。一番奥の部屋に入るとバルコニーに続く扉を開けて外へと出た。バルコニーからは木々の向こうに街が開けているのが見える。その街に住んでいる黒髪の青年のことを思い浮かべて、ハボックは一つため息を零した。
「ロイ……」
 ハボックは星が輝く夜空に青年の瞳を重ね合わせてその名を呟く。初めてロイと出逢ったあの日から、ハボックはロイに惹かれていた。滅多に人がやってくることのない屋敷の塀沿い、中を伺うように覗いていたロイに声をかけた。驚いて振り向いた黒曜石の輝きにハボックは一目で恋に落ちた。声をかけ家に誘って一緒にお茶を飲んでいる間に彼が大した読書家だと判り書斎に案内すれば、大量の蔵書に目を輝かせるロイにいつでも好きな時に本を読みに来たらいいと言った。そうして毎日のように通ってくるようになったロイと親しくなるのに時間はかからなかった。
『ハボック』
 呼んで見つめてくる黒曜石に灯る焔が、彼の心を伝えてくる。恐らく自分の瞳にも同じ焔が灯っている事は判っている。伸ばされる手を取りその細い体をその焔が命じるままに抱き締めることが出来たならどんなにか幸せだろうに。
「好きっスよ、ロイ……でも」
『ハボック様はご自分のお立場を判っておられるのですかッ?』
『用件なんて判ってんだろ、ハボック』
「……ッ!」
 不意に蘇る下男の責める響きを帯びる声にハボックは体を震わせる。先程のブレダとの電話では、その先を聞きたくなくて電話を切ってしまった。
「判ってんだよ、オレだって……」
 下男の非難もブレダの用件も、今更聞かずともよく判っている。それでも生まれてしまったこの感情をハボックにはどうすることも出来なかった。
「ロイ……でも、でもオレは」
 吐き出すように呟いたハボックの声が夜の空気に溶けた、その時。山の稜線の向こうから欠けるところなく完璧な円を描いた月が顔を出した。ハボックはほんの少し、逃げるように数歩後ずさる。だが、月は彼女が見下ろすハボックを決して逃すことはせず、その銀色の(かいな)でハボックを抱き締めた。
「あ……」
 満月がバルコニーに立つハボックにその銀色の光を投げかける。そうすれば光を受けたハボックの輪郭がゆらりと揺らいだ。
「ああ……」
 元々大柄なハボックの体が更に一回り大きくなる。短かった金髪が光の粒を集めてさらさらと音を立てて背の半ばまで伸びていった。爪が伸び、犬歯が人のものとは明らかに違いを見せ鋭さを増す。そうしてその空色の瞳が月の光を集めて輝いた時、ハボックの姿は人の姿を模した狼へと変貌していた。


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