| 月の鏡 第一章 |
| ハボックは屋敷に続く坂道を上っていく。一度足を止め来た道を振り返れば木々の間から麓に街が広がっているのが見えた。時折風が短い金髪を弄ぶように乱していくのに任せながら暫く街を見下ろしていたハボックだったが、視線を行く手に戻すと背負っていたザックを揺すり上げて再び歩きだした。更に十分ほども上っていくと大きな洋館が見えてくる。坂を上りきったハボックは黒い門扉を開けてステップを上がり、大きな扉を開いた。 「ハボック」 キッチンへと行こうとしていたハボックは、聞こえた声に足を止める。行き先を変え奥の書斎へ行き中を覗くと、黒髪の青年が窓辺の椅子で本を読んでいた。 「来てたんスか、ロイ」 「ここは読んでも読んでも読みきれないほど本があるからな。毎日来ても飽きないよ」 本をめくりながらそう言うロイにハボックは近づく。椅子の腕に手をついて本を読むロイの顔を覗き込んだ。 「じいさんからこの屋敷を継いだ時はこんな黴臭い本なんて捨ててやろうかと思ったっスけど、捨てなくて良かったっスよ」 「こんな貴重な物を捨てようだなんて罰当たりな」 ハボックの言葉にロイが顔を顰める。ハボックが眉間に寄った皺にキスを落とせば、ロイの腕がハボックの金髪に伸びた。そうしてそのまま引き寄せたハボックの唇がロイのそれに触れる寸前、ハボックはロイの腕からするりと抜け出してしまう。持っていたザックの中からリンゴを取りだして言った。 「食います?」 「────ああ、旨そうだな。貰おう」 ロイがそう言うのを聞いて、ハボックはリンゴを服の袖でこする。艶やかに光る紅い果実を放れば、放物線を描いて手元に落ちてきたそれをロイが受け止めた。 「甘いな」 「そうっスか?」 シャクリと齧って言ったロイに笑ってハボックは書斎を出ていってしまう。ロイはその背を見送ってため息をついた。 ハボックの事が好きだ。一目惚れだったと思う。引っ越してきて間もない頃、街の様子を知ろうとぶらぶらと散策していたロイは、小高い丘の上、木々に埋もれるようにして古い屋敷が建っていることに気づいた。興味を引かれて上った先、黒々と聳え立つ屋敷に誰か住んでいるのだろうかと屋敷を取り囲む柵の間から中を伺っていると背後からかかった声にロイは飛び上がった。 『なんか用っスか?』 そう尋ねる声に振り向けば自分を見つめていた空色にロイは一目で恋に落ちた。その時交わした会話はあまりに緊張していて覚えていないが、それ以来ロイは時間があればハボックに会うため屋敷に通っていた。急速に親しくなった二人ではあったが、ハボックとの間にどうしても越えられない一線を感じて、ロイにはそれが歯痒くて仕方なかった。 (ハボック……) ロイはハボックの唇が触れた眉間にそっと指を這わせる。触れた唇の柔らかい感触を思い出してロイはそっとため息をついた。彼も自分に対して好意を抱いてくれていると思う。だが、一歩踏み込もうとすればいつだってスルリと逃げてしまうのは何故だろうか。 「…………」 もう一つため息をついてロイは空を見上げる。そこに広がる綺麗な空色にハボックの瞳を重ねて見つめていたロイは、見上げた視線を落とした先、男が一人こちらを見ていることに気づいてギクリと身を震わせた。 「────ッ」 ロイは本を手に立ち上がり壁一面を占める本棚に本を戻す。足早に書斎を出ると丁度奥から出てきたハボックがロイの姿を見咎めて言った。 「あれ?もう帰るんスか?」 「ああ。ちょっと用を思い出した。また来るよ」 「待って、ロイ。帰るんなら持ってって下さい」 ハボックはそう言うと一度奥に行きすぐ戻ってくる。手にした紙袋をロイに渡して言った。 「リンゴ。食べて下さい」 「ありがとう、じゃあまた──明日」 「はい。気をつけて」 にっこりと笑うハボックに少しホッとしてロイは屋敷を出る。門を出たところで振り向くと、扉に寄りかかって煙草を吸っていたハボックが片手を上げるのに手を上げて返して、ロイは街へと続く坂道を下っていった。 「ハボック様」 ロイを見送り中へ戻ったハボックは、かかる声に足を止める。煙草の煙を吐き出しながら声のする方を見ると先ほどロイを見ていた下男が立っていた。 「何故あの人間を中にいれるのですか?」 「────お前には関係ない」 ハボックは短くそう答えて奥へと行こうとする。そうすれば非難の言葉が聞こえて、ハボックは再び足を止めた。 「ハボック様はご自分のお立場を判っておられるのですかッ?いつまでこんな────」 「そう言うお前は自分の立場が判っているのか?」 低い声で非難の言葉を遮ってハボックは相手を睨む。その鋭い眼光に下男は短い悲鳴を上げて平伏した。 「申し訳ありませんッ!出すぎた事を申しましたッ!」 「失せろ。二度と顔を見せるな」 ハボックは低くそう告げて二階への階段を上がる。寝室に入り大きな窓を開けると空を見上げた。気がつけばいつの間にか日が傾き、空は夕刻の色合いを帯びている。もう少しすれば月がその姿を現すだろうと考えて、ハボックはぶるりと体を震わせた。 「今夜は満月か」 そう呟いたハボックの空色の瞳がキラリと鋭く輝いた。 |
| → 第二章 |