そういう人々  第八章


「頬摺りくらいなんだっていうんですッ?アンタ今の状況判ってたんスかッ?あと三十秒ボウカー中佐がいなくなるのが遅かったら、あの人の腕の中で人間に戻ってたんスよッ?!」
「それは恐ろしすぎる」
 ロイが呟くように言うのを聞けば、ハボックも流石にこの人も少しは危機感があるのかと思う。だが、続くロイの言葉を聞いて、やれやれと下げた目尻をキッと吊り上げた。
「頬摺りだけでも堪らんのに、男に抱擁されるなんて絶対に嫌だぞ」
「大佐、アンタね」
 己の膝の上で腕を組んでそんな事を言う上官をハボックは握った拳を震わせて睨む。だが、ハボックが怒っていることなど全く気づいてもいないロイに、ハボックは「ハアアアア」と肺の中の空気を全部吐き出す勢いでため息をついた。
「ここでずっと話してる訳にいかないっスから執務室に戻りましょう」
 話の内容が内容だけに誰かに聞かれる訳にいかない。ハボックはロイの腕を引いて立ち上がると建物へと促した。


「コーヒーが飲みたいな」
 執務室に戻った途端そんな事を言うのを聞いて、ハボックの眉間に深い皺が刻まれる。じっと空色の瞳で睨まれて、ロイは慌てて首を振った。
「いない間に窓から出ていったりしないから」
 ハボックの視線の意味をいない間にまた逃走するのではと疑っているのだと理解して、ロイが言う。ハボックはハアとため息をつくと、軽く首を振って執務室を出た。己の気持ちを落ち着かせるために自分の分のコーヒーも淹れて、トレイを手に執務室に戻る。執務室ではロイが退屈そうにソファーにだらしなく寝そべっていた。
「……猫だな」
 その手足を伸ばして寝ころぶさまが猫を連想させて、ハボックは眉間に皺を寄せて呟く。フワァと欠伸するロイの頭をぶん殴りたい気持ちを抑えて、ハボックはテーブルにコーヒーのカップを置くとロイの向かいのソファーに腰を下ろした。
「どうぞ、温めに淹れておいたっスから」
「上官に出すコーヒーを温めに淹れるか?フツウ」
 ロイはそう言いながら体を起こすとカップに手を伸ばす。カップに口を寄せて「アチッ」と眉を顰め、フウフウと息を吹きかけるロイを見て、ケッと顔を背けて呟いたハボックは気を取り直してロイに言った。
「とにかく危機感がなさ過ぎっス、もっと自分が置かれた状況を考えてください」
「そんなに目くじら立てなくてもいいだろう?くしゃみさえしなければいいんだから」
「よくそんな事言えるっスね」
 コーヒーを啜りながら上目遣いに言うロイをハボックは睨んで言う。熱く淹れたコーヒーをガブリと飲んで気持ちを落ち着かせながら言った。
「もし、あそこで人間に戻ってたら。アンタ、すぐさま研究所に送られて二度と出てこられなかったんスよ?研究所でモルモットなみの扱い受けて、多分一年と生きていらんない。ヒューズ中佐がどうしてオレをアンタにつけたか、考えた事ないんスか?」
 低い声でそう告げられて、ロイはムゥと唇を尖らせる。ヒューズがハボックをロイにつけたのは、まだ獣人族としての特性に慣れないロイがうっかり人前で獣の姿を晒して、研究所に送られてしまう危険からロイを守る為だ。そうであればロイ自身、もっと自分の周りに気を使い少しでも獣人族としての正体を晒さぬよう、気を配らなければならないのは当然だった。
「退屈だったんだ。お前は勝手に外に出るなと言うし」
「マスクもしないで、いつクシャミするか判らないような人、うかうか外に出せる訳ねぇっしょ」
 少しでも己の正当性を主張しようとすれば間髪入れずに返されて、ロイはくしゃんと顔に皺を寄せる。窓の外に伸びる枝に目をやったロイはさっきの己の快挙を思い出して言った。
「だが、凄いと思わないか?机の上からあの枝にジャンプしたんだ。猫が身軽なのは知っていたが、自分があんな風にジャンプできるとは思わなかったよ。またやってみたいなぁ、さっきは恐々だったが次やる時はもっと思い切り────」
「大佐」
 ウキウキと嬉しそうに喋るロイの言葉をハボックの低い声が遮る。窓の外へ向けていた目をハボックに戻したロイは、空色の瞳が物騒に細められているのを見てヤバイと首を竦めた。
「判りました、今日から少し訓練しましょう」
「訓練?」
 突然そんな事を言われてロイは目を丸くする。一体なにを言い出すのだろうとじっと見つめてくるロイに、ハボックは言った。
「水被んなくても自分の意思で人間に戻れるようにしてください」
「──は?」
「猫になっても好きなときに人間に戻れるようにするんです。水被んのも三十分待つのもなし」
 そう言うハボックをロイはまじまじと見つめる。漸くハボックが言っていることが脳味噌に達すれば、ロイはガチャンとカップを机に置いて言った。
「無茶言うなッ、そんな事できるわけないだろうっ?」
「ちっとも無茶じゃないっス」
 腰を浮かして声を張り上げるロイにハボックは平然として言う。
「大佐、獣人族が優秀な種族だと言われていた理由を知ってるっスか?彼らは人間としても優れた能力を持ってましたけど、自分で望むときに獣の姿になって好きなときに人間に戻れたんスよ。獣としての能力が必要な時にその姿をとる事で優れた能力を発揮したんです」
「だ、だがそれは獣人族がこの世界に種族として存在し、認められていた頃の話だろう?私のように突然変異的に能力が出た者にそんな事が出来る訳────」
「そんなの勝手な思い込みっス」
 ロイの言葉を遮ってハボックがピシャリと言う。
「早速今日から訓練を開始しましょう。ほら、さっさと猫になって」
「無茶言うなッ!」
 冗談じゃないと立ち上がるロイと同時にハボックも立ち上がった。己より頭一つ高い男に上から見下ろされてロイが思わず後ずされば、ソファーに足を取られて再びボスンと座ってしまう。まん丸に見開く黒曜石をじっと見つめたハボックはニィッと笑うと、懐から胡椒の小瓶を取り出した。
「はい、じゃあ猫になりましょうねぇ」
「なっ、なんでそんなもの持って────ッ」
 叫ぶロイの鼻先にハボックが胡椒を振りかける。両手で顔の半分を覆って必死に耐えようとしたロイがハアックシャンッと派手なクシャミをすれば、ソファーの上には黒猫が一匹座っていた。


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