そういう人々  第五章


「あーあ、退屈だ」
 東方司令部に着任して早一週間。副司令官というからてっきり先頭に立ってバリバリ現場でやれると思っていたが、この一週間、ロイがしたことと言えば欠伸を押さえるのに必死にならなければならないほど退屈な会議に出席する事と、山ほどの書類にサインをすることだった。
「つまらん」
 ロイは椅子の背に体を預けて窓の外を見遣る。退屈凌ぎに散歩にでも行こうと思っても、心配性のハボックが絶対ダメだと許してくれなかった。
「そんなことを言って有事の際にどうするんだ」
 比較的落ち着いている今はまだいいが、なにか事があればロイとて司令部の中に留まる気などない。くしゃみが怖くてこもっていられるかとロイはため息をついた。
「折角の散歩日和なのに」
 そう呟いてロイは立ち上がり窓に歩み寄る。本格的に暑くなる前のこの季節、湿度さえ低ければ多少の陽射しの強さはむしろ気持ちいいくらいだとロイは閉じた窓を開いた。その途端、柔らかな風が執務室を吹き抜ける。気持ちよさそうに目を閉じたロイは、不意に鼻がムズムズッとして息を吸い込んだ。
「ふ……ふぇっくしょッ!」
 何となく可愛らしいくしゃみと共にロイの体の中を稲妻のような衝撃が走り抜ける。ハッとして己の手を見れば、小さな肉球がついているのに気がついて、ロイはがっくりと肩を落とした。
「しまった、またやってしまった……」
 こんなところをハボックに見られたら、またマスクをしろと怒鳴られてしまう。困ったとその場をぐるぐると回っていたロイは、ピョンと椅子から机の上へと跳び移った。
「まいったな、ちょっと風に当たろうと思っただけなのに」
 外に出られないまでも気分転換になればと思った。どうやら温度変化や微妙な風の動きに自分の鼻は過敏に反応するらしいと、妙な冷静さで分析していたロイは、ふと窓のすぐ側に枝が張りだしている事に気づいた。
「…………」
 ロイは窓から一番遠い机の端に行くと、そこから助走をつけてピョンと飛ぶ。勢い余って窓枠から落ちそうになりながらもなんとかバランスを保って窓の縁に立つと、張り出した枝を見つめた。
「跳び移れるんじゃないか……?」
 人間の姿だったら絶対に考えないことだが、今自分は猫だ。この窓からすぐそこの枝までなら簡単に飛び移れそうな気がする。万一落ちたところで猫は高いところから落ちても平気なのだし、と考えたロイは小さな額に皺を寄せた。
「ここは三階だったな」
 流石に落ちたらちょっと拙いかもしれない。それでも途中の枝に乗れればいいわけだし、折角猫の姿になったのだからこれは試す価値ありと思われた。
「そうと決めたら即実行だ」
 なによりこの退屈な時間を何とかしたくてロイはそう呟く。スーハーと何度も息を吸っては吐いてを繰り返すと、ロイはグーッと腰を下げて後ろ足に力を溜めた。
「ハッ!!」
 短いかけ声と共にロイはパッと宙に飛び出す。ふわんと体が浮いてロイは必死に頭の中で念じた。
(届けーッ!!)
 浮いた体が放物線を描いて目指す枝に近づいていく。届かなかったらどうしようと思った瞬間、トンと足が枝に降りた。
「や、やった……っ」
 ロイは後ろを振り向いて今出てきたばかりの窓を見る。あそこからジャンプしてここに飛び移ったのだと思うと、達成感が沸き上がってきた。
「ふふふ、私も結構やるじゃないか」
 ロイは自慢げに笑みを浮かべる。肉球のついた右足を上げるとちょっぴり覗いた爪で木の枝に傷を付けた。
「初めてジャンプ記念だ」
 にんまり笑ってそう言ってから、ちょっと子供っぽかったかなと黒い毛に覆われた顔を赤らめる。それでも気を取り直して、それじゃあと歩きだそうとしたロイは、細い枝の上でズルッと足を踏み外した。
「ッッ!!」
 ズザザッ!!と茂る葉の間を落っこちながらロイは夢中で手を伸ばす。そうすれば無意識に伸びた爪がバリバリと枝をこすって、やがて引っかかって止まった。
「……びっ、びっくりした……ッ」
 ロイは枝にしがみついてホッと息を吐く。体勢を直してやれやれとため息をつくと、今度こそ慎重に枝を伝って地面に降りた。
「よし、もう大丈夫だな」
 地面に足がつけばもうこっちのものだ。
「さて、どこに行こうかな」
 ロイはそう呟くと、ピンと尻尾を立てていそいそと歩きだした。


「大佐、この書類にサインください」
 コンコンとノックをしながら扉を開けたハボックは、執務室が空っぽなのに気づいて目を瞠る。確か朝ロイが執務室に入るのを確認した後、出ていくのは見ていない筈とキョロキョロと部屋の中を見て回った。
「大佐?」
 もしかして仮眠でもしているのかと、執務室の奥にある仮眠室も覗いてみる。だが、カーテンが引かれた部屋には誰もいないベッドがぽつねんと置いてあるだけで、ロイの姿はなかった。
「なんで?出ていってないだろ?」
 席を外してもいないし居眠りだってしていない。ロイが執務室から出ていけば絶対に気づく筈と思ったハボックは、大きな窓にかけられたカーテンがふわりと靡いたのを見て目を見開いた。
「まさか」
 ハボックは呟いて窓に駆け寄る。窓の外には張り出した長い枝。身を乗り出すようにして目を凝らしたハボックは、枝につけたばかりの引っ掻き傷を見つけた。
「うそだろ……猫の姿で外に出たのか?」
 そう口にすればハボックの顔がサーッと青褪める。窓枠を掴んだ手が枠をへし折りそうなほど力が入った。
「判ってんのかよ、三十分たったら戻っちまうんだぞ」
 妙な場所で人間に戻ってしまったらどうするのか、万一戻る瞬間を誰かに見られたらどうするのか。
「あんの、クソ大佐……ッッ!!」
 食いしばった歯の間から呻くようにそう言うと、ハボックは執務室を飛び出していった。


→ 第六章
第四章 ←