第十六章


「くそ……なんなんだ」
 ヒューズはだるい体をベッドから無理矢理引き剥がしてため息をつく。額を押さえてハアと大きく息を吐き出すとベッドサイドのテーブルに置いてあった眼鏡を取った。
 先日ハボックの屋敷に行って以来何となく体がだるい。『警告した』と言って昏く笑ったハボックを思い出して、ヒューズは忌々しげに舌打ちした。
「あの野郎、何かしやがったか…?」
 だが、特にあの屋敷で何か口にしたわけでもなんでもない。気を失っている間に何かされたかと思いもしたが、衣服の乱れもなければ注射針の痕もなく、ヒューズは調子の悪さを季節のせいにした。
「気候が定まらないからな」
 風邪でも引きかけているのかもしれない。そう思ったヒューズはロイの白い顔を思い出して心配になる。学生時代季節の変わり目にはよく体調を崩していた友人のことを考えれば、俄に落ち着かなくなった。
「アイツの事もあるし」
 音楽の授業でしか知らない作曲家と一緒に写真に写っていたハボック。それを思い出せば背筋をゾッと冷たい物が駆け抜けて、ヒューズは身を震わせた。
「ロイのところへ行かないと」
 写真の事を話しても、ロイは聞く耳を持たなかった。それでも古い友人としてロイを守ってやらなくてはならないと思う。ヒューズは急いで着替えを済ませると、上着を羽織って玄関から出ようとした。その時、吹き付けてきた強い風に煽られた扉に手を挟みそうになる。
「うわっ!」
 慌てて手を引っ込めて難を逃れたヒューズは唸りをあげて吹き荒れる風に眼鏡の奥の目を細めた。
「なんて風だ」
 夕べも随分と吹き荒れていた。星一つない夜空を吹き抜けていた風が今またロイを遠くへ浚って行ってしまうような気がする。
 ヒューズはブルリと身を震わせると、風が吹き荒れる中ロイの屋敷目指して歩きだした。

 びゅうびょうと風が吹き荒れる庭をロイはガラス越しに見つめる。強い風に薔薇が乱暴に揺さぶられ、花びらが舞い散るのを見ても、今のロイは何とも思わなかった。
「ハボック……」
 頭を占めるのはあの空色の瞳だけだ。誰よりも愛していた祖父を失ってから、ロイは心の中にぽっかりと出来た穴を埋めることが出来なかった。気遣って色々と声をかけてくれるヒューズですら、祖父がいなくなった穴を僅かなりとも埋める存在にはなり得なかった。祖父の遺した薔薇を世話する事で心の穴を埋めようとしていたロイの前にハボックは現れたのだ。ロイにはハボックの輝く金髪が薔薇を育む陽の光に見え、澄んだ瞳の色が薔薇を包み込む空の色に見えた。あっと言う間に心の中に入り込んでしまったハボックに、だが思うように会うことさえ出来ない事がロイのハボックへの気持ちを一層掻き立てる。
「会いたい……」
 薔薇が時を告げなければ会いに来てくれない。それなら薔薇がなくなれば来るべき時が判らなくなって、すぐにも会いに来てくれないだろうか。そう思って大切に大切に慈しんできた薔薇を滅茶苦茶に棒で打ちつけさえしたのに。
「ハボック、早く来て……ッ」
 ロイは舞い上がる花びらを見つめながら己の体をかき抱いた。


2010/04/20



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