| 第三章 |
| ぴちゃん。 湖のほとりに座り込んで、ハボックは冷たい水に手を浸す。ゆるくかき回せば小さな漣が起きて、湖面へと広がっていった。広がった波は天上から降り注ぐ銀色の月の光を受けて、無数の光の欠片を撒き散らす。その欠片を追いかけるように湖面の先へと目をやれば黒々と茂る森の木々の上に夜空が広がっていた。 「………」 ハボックは湖面から頭上へと視線を上げる。夜空を飾る数多の星の輝きが愛しい少年の瞳を思い起こさせた。 「………ロイ」 そう呟けば胸の内に熱い想いが込み上げて、ハボックはそれを打ち消すように乱暴に水を掻き回す。だが、そうすれば大きくなった波は余計に自分の心情を映し出すようで、ハボックはギュッと目を閉じると湖から引き出した手を胸元に抱き締めた。 「ロイ」 どうすればこの想いを打ち消す事が出来るのだろう。少年とは違う時を生きる自分がどれ程恋焦がれたところで、ロイと一緒に生きていく事など出来はしないのに。いっそ、自分のこの呪われた身の上を明かして、心臓に杭を打ち頭蓋を潰して貰えばいいのだろうか。 ハボックは震える吐息を吐き出してそっと目を開く。そろそろと水に手を浸しもう一度湖面を掻き回せば、昼間は透明な水が夜闇に昏く沈んで月の光を映す様が夜の星が降りてきたように見えた。それは夜空と同じようにハボックの心にロイを想い描かせて、ハボックは思わずそれを掴もうとするように水を大きく跳ね上げた。 「ロイ……ッ」 夜空を背景にキラキラと舞い落ちる滴をハボックはじっと見つめる。それから立ち上がると、煌めく湖面にゆっくりと脚を差し入れた。そのまま静かに歩いていけば、やがて水面はハボックの腰のあたりまでになり、ハボックは両手で水を掬うとそっと口付ける。月明かりの下、ハボックは何度も何度も水を掬っては口付けた。 ヒヤリと冷たい空気が首もとをかすめてロイは目を覚ます。揺れるカーテンを見れば閉めたはずの窓が細く開いている事に気付いた。ロイはベッドから下りて窓に近づく。カーテンを開けて空を見上げるとまん丸に満ちた月が煌々と輝いていた。細く開いていた窓を更に押し開ければ直に月の光が降ってくるような気がする。その時、柔らかい夜風に乗って、微かな声が聞こえてきた。 『………ロイ』 「え?」 聞こえた声にロイは慌てて辺りを見回す。その声は自分が今、誰よりも心惹かれる相手のもので、ロイは身を乗り出すようにして辺りを見回したが、どこにもその声の持ち主の姿は見えなかった。 「空耳…?」 会いたいと思うばかりに幻聴を聞いたのだろうか。だが、その時、もっとはっきりと声が聞こえた。 『ロイ』 「ハボック?」 声は風に乗って聞こえてきた。そしてその風は、二人がいつも会うあの湖を抱えた森の方から吹いてくる。ロイは黒々とした影になっている森をじっと見つめていたが、窓を閉めると部屋を横切りクローゼットの中から服を取り出して着替えた。それから足音を忍ばせて階段を下り、寝静まった廊下を過ぎて玄関に辿り着くとそっと扉を押し開く。そうして一目散に森に向かって駆け出した。 夜の森は鬱蒼と生い茂る枝葉のおかげで相当に暗い。それでも時折射し込む満月の光で、ロイは何とか湖への道を辿る事が出来た。ハアハアと息を弾ませて森の中を走るロイの耳にもう一度声が聞こえる。 『ロイ……ッ』 その声にロイは一層足を速めて森の中を駆け抜けた。漸く木々が途切れ、湖が目の前に現れる。その時、湖の中に佇む人影が見えて、ロイは凍りついたように足を止めた。 「………」 その人は腰の辺りまで水の中に入り、何度も両手で水を掬っては口元に運んでいる。いつもは蜂蜜色に輝く髪が、月明かりの下、まるでその光を集めたように銀色に煙って見えた。ハボックはやがて空を見上げると両腕を掲げる。縋るように伸ばされた腕を流れる滴が月の光に煌めいて、ロイはハボックがそのまま月に連れ去られてしまうのではないかと思った。ゾクリと背筋を冷たいものが流れ、ロイは森から飛び出す。 「ハボック!!」 叫ぶように名を呼べば、驚いたようにハボックが振り向いた。 「ロイ?!」 それと同時に下ろされた腕から月の光が消えて、ロイはホッと息を吐く。駆け寄る勢いのまま湖に飛び込んだロイに、ハボックがギョッとして湖の水を縫うようにしてロイに近づいてきた。 「ロイ!なんてことを!」 ザブザブと水を跳ね上げてハボックに手を伸ばすロイをハボックの力強い腕が引き寄せる。ハボックは細い少年の体をギュッと抱き締めて言った。 「なんてことするんスかッ!こんな冷たい水に飛び込むなんて!」 「だったらお前はどうなんだッ、こんなところで何をしていたッ!」 強い光を放つ黒い瞳に睨まれて、ハボックは目を見開く。ロイは空色の瞳にそっと手を伸ばして言った。 「お前の声が聞こえたんだ。私を呼ぶお前の声が。だから来てみればお前が湖の中に立っていて……。月の光に包まれてそのまま消えてしまうのかと思った…ッ」 「ロイ……」 言ってロイは冷え切ったハボックの体をギュッと抱き締める。どこへも行かせまいと、抱き締める腕に力を込めて言った。。 「行かないでくれ、どこにも行かないでくれ、ハボック」 胸に顔を押し付けて告げられる少年の言葉はたちまちハボックを縛ってしまう。 「……行きません、どこにも。オレはどこにも行きません」 熱い想いを打ち消す術もないままに、ハボックはただロイの体を抱き締めていた。 2009/09/04 |
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