| 第二章 |
| ハボックはゆっくりと森の中を歩いていく。ハボックが一歩進むたび彼の行く先で鳴いていた鳥は声を潜め、生い茂る木々はまるで彼に触れるのを恐れるように道を開けた。暫く行くと鬱蒼と生い茂る森の中で何故だかぽっかりと空いた空間に出る。そこには沈みゆく夕陽を背に古い洋館がそびえ立っていた。時刻のせいもあるのだろう、古い洋館は血の色をした夕陽の下、黒々と沈み酷くおどろおどろしく見える。常人であれば絶対に近づきたくないと思われるその洋館に、ハボックは躊躇いもせず近づくと玄関に続く階段を上がり大きな扉に手のひらを当てた。 ギィィィ……。 低い音と共に扉が開く。ハボックが出来た隙間から体を滑り込ませて中に入ると、扉は開いた時と同じように軋んだ音を立てて閉まった。コツコツと音を立ててハボックは広いホールの中を歩いて行く。ホールの一面は庭に面したガラスになっており、陽が殆んど沈んだ今では外の景色よりも部屋の中を映す鏡となっていた。ハボックはホールの中ほどまで行った所でガラスの方へ目をやる。薄暗い部屋の中を映し出すそのガラスに、だがハボックの姿は映ってはいなかった。 「………」 ハボックは視線を戻すと2階へと続く階段を上がっていく。寝室の扉を開け、そこを通り抜けるとバルコニーに続く窓を開いた。地平線に僅かに残る紅色を背景に黒々と浮かび上がる森を暫く見つめていたハボックは、バルコニーに置かれたカウチに腰を下ろす。前屈みになって手のひらに顔を埋めると、深いため息を漏らした。 「……ロイ」 ひと月ほど前に偶然森で出逢った少年。突然声を掛けられた時は本当に驚いた。もう何百年もの間、誰かに声を掛けられたことなどなかったので。 『何をしているんだ?』 高い梢に留まる小さな鳥を見上げていれば突然背後から声が聞こえた。ギョッとして振り向いたそこに少年――ロイは立っていた。まっすぐに見つめてくる黒曜石の瞳の輝きに時間が意味をなくし、ハボックは答えることも身動きする事も出来ずにロイを食い入るように見つめていた。 『何かいるのか?』 答えないハボックにロイは微かな苛立ちを込めて言うとゆっくりと近づいてくる。立ち竦むハボックの傍まで来るとハボックが見上げていた方向へ視線をやった。 『小鳥?』 そう言って尋ねる視線を向けてくるロイにハボックはビクリと体を震わせる。 『え、ええ。そうっス』 ぎこちなく目を逸らして答えたハボックは突然腕を掴まれて飛び上がった。 『ごめん』 ハボックのあまりの驚きように、腕を掴んだロイもまた驚いて目を見開く。謝罪の言葉を呟いたロイにハボックは慌てて首を振った。 『すんません、ちょっとびっくりして、その……』 そう言いながら俯いてしまうハボックの、その長身に身を寄せるとロイはハボックの顔を覗き込む。俯いたハボックの顔はまだ成長途中のロイが身を寄せて上向けば丁度すぐ目の前に迫って、ロイはクスリと笑った。 『青空みたいだ』 『え?』 『お前の瞳。澄んだ空の色だ。綺麗だな』 そう言われてハボックは頬を染める。そんな風に言われたことなどこれまで一度もなくて、何を言ったらいいのか迷った末、ハボックは一番に浮かんだことを口にした。 『アンタの瞳の方がずっと綺麗っス。夜の星空みたいだ』 そう返せばロイが驚いたように目を瞠る。それからくすくすと笑った。 『そんな事を言われたのは初めてだ。いつだって私の髪と瞳の色は闇色だと言われ続けて来たからな』 『そんなことないっス!』 即座に否定の言葉が返ってロイは笑みを深める。それからハボックをじっと見つめて言った。 『私はロイ。この森を抜けたところにある街に住んでる。お前は?』 名を尋ねられてハボックは困ったように瞬く。答えるべきか悩んだ末、小さな声で答えた。 『ハボックっス』 『ハボック…いい名前だ』 少年は大人びた口調でそう言ってうっすらと笑う。その笑みにハボックはもう随分と長いこと速まる事などしてこなかった心臓が、とくとくと音を立てて走るのを感じた。その事に狼狽えてハボックはロイから離れて歩き出す。ロイは慌ててハボックの後を追った。 『いつもここに来ているのか?ハボック』 『ええ、まあ』 ロイの問いにハボックは曖昧に頷く。やがてサラサラと水の流れる音がして、二人は綺麗な流れへと出た。 『川?こんなところに?』 キラキラと光る流れにロイは目を輝かせて言う。だが、ハボックは何も言わずに流れに沿って歩いていってしまった。 『ハボック!』 置いていかれまいとロイは急いでハボックを追いかける。だが、長身のハボックの歩みは少年のそれよりずっと早く、急ぐあまりロイは小石を踏んで転んでしまった。 『待って、ハボ…、イツ…ッ!』 慌てて立ち上がろうとしたロイは転んだ拍子に捻ってしまった足首に走る痛みに顔を顰める。くそっ、と呻いて無理に立とうとするロイの耳に柔らかい声が聞こえた。 『動かないで』 ハッとして見上げれば先に行ってしまったとばかり思っていたハボックが立っていた。ハボックはしゃがみこむとロイの靴と靴下を脱がせる。紅く腫れ始めている足首を見て言った。 『捻ったみたいっスね』 ハボックはそう言うと脱がせた靴と靴下を持つ。それから座り込むロイをヒョイと抱き上げた。 『な…ッ』 『じっとしてて、すぐ下ろしますから』 そう言って微笑む空色にロイは息を飲む。残りの十数メートルを進むと突然視界が開け、小さな湖へと出た。 『凄い……』 さっきの小川が流れ込む先は澄んだ湖になっていた。ハボックは抱いていたロイの体を湖のほとりの小さな岩の上に下ろす。そうしてポケットから取り出したハンカチを湖の水で濡らすと紅く腫れたロイの足首に載せた。 『冷やせば腫れも引くっスから』 ハボックはそう言って何度も繰り返しハンカチを絞ってはロイの足首を冷やす。俯きがちのハボックの金色の睫をじっと見つめていたロイは、ゆっくりと目を上げて湖を見た。 『こんなところに湖があるなんて知らなかった』 『街の人間はこんなところまで来ないっスからね』 『お前はこの近くに住んでるのか?よくここには来るのか?』 そんな事を聞く少年をハボックは驚いたように見つめる。それから温くなったハンカチを取り上げ湖に浸しながら答えた。 『そうっスね。ここだけはオレにも優しいから』 『え?』 ハボックの言った意味が判らずロイは問い返す。だがハボックはそれには答えず、冷えた足首にそっと触れて言った。 『少しは痛み、引いたっスか?』 『え?あ、ああ』 それを聞いたハボックは自分が着ているシャツの袖口を掴む。エイッとばかりに引っ張れば、肩の縫い目が千切れて袖が外れた。その袖を細く裂いて、ハボックは包帯代わりに巻いてロイの足首をきつく固定する。靴を履かせたロイに立ってみるよう促して言った。 『大丈夫?歩けそうっスか』 そう聞かれてロイはトントンと脚を動かしてみる。さほど痛みを感じずに歩けそうだと判るとハボックに礼を言った。 『ありがとう、ハボック』 『いいえ、家に戻ったらちゃんと手当てして貰ってくださいね』 その言葉にロイはほんの少し顔を歪める。だが、ハボックがそれに気付く前に笑みを浮かべて言った。 『明日もここに来るのか?ハボック』 『え?ええ、多分』 『判った、じゃあまた明日、ここで会おう』 『えっ?!』 驚いたようにまあるく見開かれる空色の瞳にロイは腕を伸ばすとハボックの体をギュッと抱き締める。そうして身を翻すと手を振って走っていってしまった。 『ロイ!』 咄嗟の事に「来ない」ということも出来ず、ハボックは呆然とロイが消えていった森を見つめていたのだった。 そうして。 ロイは毎日のようにハボックに会いにくるようになった。こんな風に誰かが自分に会う為にやってくるなんて事は初めてで、ハボックは戸惑いを隠せない。それでもいつしかロイが来てくれるのを待ち望むようになっていった。湖のほとり、誰も来ないその場所でハボックはロイと会った。会えばいつも嬉しそうに笑う黒い瞳が愛しくて、気付いた時、ハボックはロイに恋をしていた。好きで好きで、ただ傍にいるだけで幸せで。 だが。 ハボックは手のひらに顔を埋めたまま嗚咽を零す。こんな恋は赦されない。いつか少年は気付くだろう。日々成長していく自分と違って、ハボックの時が止まっている事に。ハボックが少年の属する世界とは違う世界に属する眷属だという事に。 「ロイ……ッ」 今日こそは行くまいと思ってもどうしても湖に向かう足を止められない。ハボックはロイが気付くそう遠くない未来を思って、張り裂けそうな心を抱えながら震えるしかなかった。 2009/09/02 |
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