第一章


「来てる!」
 木々の間から覗く煌めきにロイは瞳を輝かせると最後の数メートルを駆け抜ける。少年が声をかける前に湖のほとりに座っていた青年は、足音に振り向くとにっこりと微笑んだ。
「ロイ」
 柔らかい声に名を呼ばれてロイは満面の笑みを浮かべると青年の首に飛び付くようにしがみつく。
「ハボック」
 しがみついてくる腕ををハボックと呼ばれた青年は肩を叩いて外させると隣に座るように促した。
「今日は体調、いいんスか?ロイ」
「うん。ここのところずっと調子いいんだ。熱も出ないし食事もちゃんと食べられるし」
「よかった。でも、無理しちゃダメっスよ?」
「判ってるって」
 ロイはそう答えると元気よく立ち上がる。湖の淵に近づくと冷たい水の中にそっと手を差し入れた。
「ロイ、あまり湖の傍に寄ると危ないっスよ」
「大丈夫。小さな子供じゃないんだし」
 そう言いながらロイは水をそっとかき回す。透明な水の中に綺麗な青い石を見つけて思わず手を伸ばした。
「あっ」
 思ったより深いところにあったそれに、ロイは引き込まれるようにバランスを崩してしまう。そのまま湖の中に吸い込まれてしまうかと思った瞬間、力強い腕がロイを引き戻した。
「ロイっ!」
 グイと引き戻された勢いのまま腕の中に抱き締められる。見上げれば空色の瞳が責めるようにロイを見ていた。
「だから危ないって言ったっしょ!」
「ごめ…湖の中に綺麗な石があったから、つい…。お前の瞳みたいだと思ったんだ」
 そう言えば青年がホウとため息をつく。ロイの体をギュッと抱き締めると言った。
「驚かさないで下さい。湖に落ちるかと思ったっスよ」
「ごめん…」
 ロイはそう答えると体温の低い青年の体を抱き返す。そうすればハボックは初めてロイを抱きしめている事に気付いたとでも言うように慌てて体を離した。そのまま背を向けて歩き出す青年を見つめながらロイは落胆したような息を漏らす。
(もっと抱きしめていてくれればいいのに)
 そう思いながら青年の後を追って小走りに走った。そうして湖から少し離れたところに腰を下ろしたハボックの隣に腰を下ろす。見上げれば空色の瞳が優しく笑いかけてくれた。

 ロイはひと月ほど前に出逢ったこの青年がとても好きだった。両親をなくし、莫大な遺産を引き継いだもののまだ未成年だったロイは後見人の伯父夫婦の家に引き取られた。愛情故ではなく、遺産の為にロイを引き取った伯父達はその事を隠そうとはしなかった。引き取られた家にロイの居場所はなく、一人ぽつねんと森を歩いていた時、ロイはハボックに出逢ったのだ。昏い森の中で差し込む一条の光に金色の髪を輝かせて立っていた青年はじっと梢を見つめていた。その先にとまる小鳥を見つめる空色の瞳がとても哀しそうで、ロイは思わず声をかけていた。驚いたように振り向いたその綺麗な空色の瞳に瞬間囚われて。

 その日以来、ロイはハボックに会う為に森に出かけるようになった。最初のうちはロイが会いに来ることに戸惑いを隠せない様子だったハボックもいつしかロイと会うことを楽しみにするようになっていた。ロイより恐らく10歳ほども年上のハボックは、はにかむ様に笑う笑顔がとても可愛くて、ロイは年下であるにも拘らず彼を守ってやりたいような気持ちになった。毎日のように会えば会うほどもっともっと一緒にいたいと思うようになっていた。それはハボックも変わらないようで二人は時間の許す限り一緒に過ごすようになっていった。会ってただ話をするだけ。時には言葉も交わさず同じ空間を共有するだけのこともあった。それでもそれはとても満たされた時間で。
「ハボック。明日もまた来るか?」
「そっスね。多分…」
「じゃあ、私も来よう」
 ロイが嬉しそうに言えばハボックがほんの少し淋しそうに微笑む。
「無理しちゃダメっスよ。アンタ、あんまり丈夫じゃないんスから」
 ハボックはそう言うとロイの頬に手を伸ばした。だが触れる前にその手が下ろされてしまうのをロイは不満げに見つめる。ハボックは立ち上がって服をはたくとロイに言った。
「もう帰った方がいいっス。夕方は冷えるから」
「…判った。明日も絶対来るから」
 ロイはそう言って立ち上がると下ろされてしまったハボックの手をギュッと握り締める。それから名残惜しそうに何度も振り向きながら帰っていった。木々の間に消えていく少年の姿をハボックは切なげに見送る。
「ロイ…」
 愛しそうに名を呼んだ青年の影は湖の湖面に映ってはいなかった。


2008/08/17


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