深淵に偲ぶ恋  第六章


「ボス!」
「その呼び方、やめろって言って……────殿下は?」
 足早にカフェテリアに戻ってきたハボックは、入口でハボックを待ちかまえていたチェンにそう呼ばれて眉を顰める。一番奥のテーブルに目をやり、そこにいるべき姿が見えない事に気づいて僅かに目を見開いて尋ねた。
「それが……コーヒーを買ってきてくれと言われて」
「側を離れたのか?」
「目と鼻の先だから大丈夫だと思ったんですっ」
「チェン」
 低い声で名を呼ばれてチェンはビクリと体を震わせる。どんな叱責の言葉が飛んでくるかと、身構えるチェンの耳に聞こえたのは別の言葉だった。
「学生達に確認したか?」
「誰も怪しい人物は見てません」
 チェンを責めるなどという無駄な事はせず、現況を尋ねながらハボックはカフェテリアに入る。一直線にカウンターに向かうと、中の店員に話しかけた。
「ちょっと教えてくれ。ここからあそこのテーブルに座っていたマスタング公が見えていたと思うんだが、彼は誰と一緒に出ていったかな?」
「えっ?マスタング公ですか?彼なら一人で出ていきましたよ」
 それを聞いてハボックは目を瞠る。「ありがとう」と一言言って出入口に向かうハボックを追いながらチェンが言った。
「一人でってどう言うことです?」
「そのまんまの意味だろう。お前、嵌められたんだ」
「は?」
 ポカンとする若い部下をハボックは足を止めてみる。ハアと一つため息をついて言った。
「お前の目を逸らす為にコーヒーを頼んだんだよ。その間に一人で抜け出したんだ」
「────はあっ?」
「ちょっと飽きてたみたいだからな。失敗した」
 そう言ったハボックはポカンとしているチェンに苦笑する。軽く頭を小突いて言った。
「しっかりしろ。すぐに危険はないにしても、これから先何かあったら拙い。スレッジに連絡して校内を隈無く探せ、オレは外を探す。三十分後に連絡」
「判りましたっ」
 端的に指示を与えるとハボックはコムで連絡をとるチェンを置いて足早に出入口に向かう。校門をくぐり通りに出ると左右を見回した。
「まったく困った王子様だ。自分の立場判ってんのか、コンチキショウ」
 チェンの前では見せなかった苛立ちと焦りを言葉に乗せてロイを罵ると、ハボックはロイの姿を求めて歩きだした。


「ああ、久しぶりだ」
 ロイは校門の外へ出ると思い切り伸びをする。そうすれば近くを通った人が怪訝そうな顔をしたが、ロイは気にせず解すように体を動かした。
「さて、どこへ行こう」
 こうやって一人で外へ出るのは一体どれほどぶりだろう。カウィルにいた時は勿論警護の兵士が付きっきりだったし、アメストリスに来てからもホテルの自室にいる時以外はハボック達が四六時中側についていた。身の安全を確保するためとはいえ、折角訪れた異国を楽しむ事も出来ず正直ロイはすっかり煮詰まってしまっていたのだった。
「髪でも切りに行こうかな」
 ふと覗いたショーウィンドウに映った自分の姿を見てロイは呟く。
「髪を切ってさっぱりして、それから街を散策しよう」
 ロイは少し伸びた髪を指先で引っ張ってそう決めると、辺りを見回して丁度目に付いた理容室に入っていった。
「いらっしゃいませ」
 扉が開く音に振り向いた理容師がロイの顔を見てポカンとする。ロイはにっこりと笑って理容師に言った。
「髪を切って貰いたいんだが」
「あ……はいっ!こっ、こちらにどうぞっ」
 ロイに笑いかけられてボッと火がついたように赤くなった理容師は、ぎこちない動作でロイに椅子を勧める。ロイがゆったりとした椅子に腰を下ろせば、理容師はロイにケープをつけて言った。
「ええと、どのようにしましょう?」
「そうだな、全体的に二センチほど切ってくれるか?伸びてきて鬱陶しいんだ」
「判りました」
 ロイの言葉に頷いて、理容師は艶やかな黒髪を湿らせる。櫛と鋏を使って髪を切りながら、理容師は鏡の中のロイに話しかけた。
「お客さん、ここは初めてですよね?でも、どこかで会ったような気がするんだけど……」
「初めてだよ。私のような顔はどこにでもいるからじゃないかな」
 考える仕草をする理容師にロイがそう答えれば、理容師はぶんぶんと首を振った。
「お客さんみたいに綺麗な人、見たことないですよ!もしかしてモデルとか役者とかですか?」
 そんな風に言われてロイはクスクスと笑う。それでも曖昧に答えずにいればそれ以上追求はせず、理容師の男は雑談混じりにロイの髪を切りそろえていった。
「こんなもんでどうですか?」
「うん、ありがとう」
 鏡の中で様子を伺うように見つめてくる理容師に、ロイは満足げに頷く。顔についた髪を払ってケープを外して貰うと、ロイは椅子から降りた。上着のポケットから札入れを取り出すと理容師を見た。
「カードでいいか?」
 そう尋ねれば理容師は肩を竦めて頷く。
「こんなところでカード使う人はあまりいませんがね」
 小さな店だ。出来れば現金決済で支払って欲しいのだろうと思いつつ、ロイはサインを認めカードでの支払いを済ませると店を出た。
「ああ、さっぱりした。さて、次はどこへ行こう」
 髪が軽くなれば気持ちも軽くなった気がする。短くなった髪を風に揺らして、ロイは楽しげな笑みを浮かべながらゆっくりと歩きだした。


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