深淵に偲ぶ恋  第五章


 講義を終えるベルの音が響いてロイはフゥと息を吐き出す。広げていた分厚い本を閉じ教室の一番高い場所にある席から、ロイと同じように潜めていた息を吐き出し荷物を取り出す学生達を眺めた。
 ロイがカウィルからアメストリスに来て半月が過ぎていた。国にいる時と違い正直なにもする事のないロイは、折角の自由な時間を勉学に生かしたいとアメストリスの中でも古い歴史を持つ大学の一つに通い始めていた。今日も朝から文学史の講義を受けて、ロイはこれまであまり学んだ事のない分野で知識を得ることに満足そうなため息をついた。本やノートを重ねるとロイは立ち上がり教室の扉に向かう。そうすればロイを挟むようにして教室の両脇に控えていたハボックとチャンが即座に付き従った。
「────」
 ハボックとチャンは暗殺事件の渦中にあるロイをいつでも守れるよう、ロイを真ん中にして歩く。その物々しい様子に休み時間で教室の外に出てきた学生達が遠巻きにロイを見つめていた。
(折角大学に来たところでこれではな)
 何年ぶりかの学生生活で学生達と色々と語り合えるのではと期待していた。だが、実際大学に来てみれば、教室ではロイの周りに学生達が座ることは許されず、学内でも必ずハボックともう一人チャンかスレッジがピタリと側について離れなかったから、学生達はロイに興味津々の眼差しを向けながらもロイに声をかけることも出来なかった。
(つまらん)
 確かに学習意欲は満たされているが、これだけなら家庭教師をつけているのと殆ど変わりない。ロイがそっとため息をついた時傍らを歩いていたハボックが言った。
「そう言えば殿下、次の講義は休講だそうっスよ」
「休講?」
「どうします?一度ホテルに帰りますか?」
 そう尋ねてくるハボックをロイは見上げる。警備の面から言えば恐らくは帰って欲しいのだろうと思いながら、ロイは首を振った。
「いや、カフェテリアで時間を潰すよ」
「── そうっスか」
 微妙な間がハボックの不満を伺わせてロイは微かに笑みを浮かべる。半月の間、朝から晩まで顔をつきあわせて過ごすうち、ロイにもハボックの心の動きが少しだけ判るようになっていた。
「迷惑そうだな」
「そんなことないっスよ。ここのカフェテリアは旨いっスからね」
 ロイの言葉にハボックが肩を竦める。特に問題ないように言いながらもその言葉を裏切るように咥えた煙草がピコリと跳ねるのを見て、ロイは満足げな笑みを浮かべた。
三人でカフェテリアに入るとロイの希望を聞いたチェンがカウンターに向かう。その間にハボックはロイを席に連れていくと周りに危険がないのを確認してから椅子を勧めた。
「どうぞ、殿下」
「ああ」
 壁を背にして腰掛けるロイをカフェテリアにいた学生達が遠巻きに見つめる。その視線の中に敵意のあるものがないことを肌で感じながら、ハボックは言った。
「どうですか?もう大学には慣れたっスか?」
 ロイは傍らに立ってそう尋ねてくる男を見上げて答えた。
「慣れるもなにも、お前達にガッチリガードされてここへ来て、講義を聞いたら帰るだけだ。私は図書館に通うのではなくて共に勉学に励む学友と議論を交わしたりしたいんだがな」
「殿下」
 はっきりと不満を口にするロイをハボックが宥めるように呼ぶ。ハボックが何か言おうとする前に、トレイにコーヒーのカップを載せたチェンが戻ってきた。
「お待たせしました、どうぞ」
 チェンはそう言いながらロイの前にカップを置く。少し不貞腐れた表情でカップを手に取りフウフウと息を吹きかけてコーヒーを啜るロイを、ハボックはじっと見つめていたが口を開いて言った。
「それなら今度、学生達に声をかけて討論会を開きましょう」
「そう言うんじゃない」
 ハボックの言葉にロイは僅かに苛立ちの混じる声で返す。乱暴にカップをテーブルに置いたロイは、何か言いかけて口を噤むと緩く首を振った。
「もういい」
 ため息混じりに言ってロイはもう一度カップを手に取った。
(折角アメストリスに来たのに)
 どこにいても暗殺事件の陰はついて回るのだろうか。ロイはそっとため息をついて窓の向こうの青い空を見上げた。


「──── はい」
 考えに沈んでいたロイは不意に聞こえた声に顔を上げる。傍らのハボックを見上げれば、ロイに背を向けるようにしてコムの相手と話をしていた。
「それぐらいそっちでなんとかしてくれ。──── は?いや、だからっ」
 珍しく苛々した様子で話すハボックをロイはじっと見上げる。少ししてハボックはチッと舌打ちして話を終えた。
「チェン、すまんがちょっと外す」
「どうかしたんですか?」
「ちょっとな、すぐ戻る」
 チェンの問いかけにハボックは曖昧に答えて足早にカフェテリアを出ていく。思いがけずチェンと二人残されたロイは、微かに当惑した表情を覗かせるチェンをじっと見つめた。
「──何か?」
 ロイの視線を感じたチェンが小首を傾げる。ロイは若いSPを見つめて言った。
「ハボックの下について長いのか?」
「二年です」
 チェンは答えてハボックが出ていった方向に目をやる。
「最高のSPですよ、あの人は」
 そう言うチェンの言葉からはハボックに対する百パーセントの信頼が見て取れて、ロイはフゥンと鼻を鳴らした。
 その後はなにを話すでもなく時間が過ぎていく。すぐ戻ると言っていたハボックはなかなか戻ってこず、流石にチェンが苛立たしげに眉を寄せた時、ロイが言った。
「すまないがコーヒーをもう一杯頼むよ」
「えっ?ですが殿下」
 今ここにいるSPはチェン一人だ。当然の反応としてハボックが戻るまでもう少し待ってくれと言うチェンに、ロイはにっこりと笑みを浮かべた。
「ここは学内のカフェテリアだ。君がすぐそこのカウンターにコーヒーを買いにいって戻る位の間なら危険などないよ」
 ニコニコと笑いながら言われれば反論もしづらい。確かに学内のカフェテラス、ほんの目と鼻の先のカウンターでコーヒーを買って戻る位の間なら、ロイから離れても問題ないように思えた。
「判りました。すぐ買ってきますからここにいてください」
「ありがとう」
 にっこりと笑って頷くロイに笑い返して、チェンはカウンターに足を向ける。急いでコーヒーを買ってチェンが戻ってきた時、そこにロイの姿はなかった。


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