深淵に偲ぶ恋  第二十二章


「どこに行きやがった」
 男は辺りを見回しながら足早に通りを歩いていく。手近にいた露店の店主の襟首を掴んで引き寄せると、そのこめかみに銃を突きつけた。
「こっちに金髪と黒髪の二人連れが逃げてきただろう?どっちへ行った?」
「ヒィッ」
 いきなり銃を突きつけられて、店主は短い悲鳴を上げて目を剥く。ガタガタと震えながら店主は近くのアパートの階段を指さした。
「あっちか」
 男は店主が指さした方向を見て呟く。銃を持った手で店主の顔を思い切り殴ると襟首を掴んでいた手を離し、階段を駆け上がった。鍵の壊れた扉を見つけ中へと入る。腰を抜かして座り込む女性を一瞥して「どっちだ?」と尋ねた。そうすれば女性は震える指でベランダを指さす。それにフンと鼻を鳴らして男は走り出すとベランダの手摺りを飛び越え下に降りた。
「逃がさねぇ」
 男は低く呟くとハボックとロイが走り去った方へと走り出した。


「大丈夫っスか?」
 ハアハアと息を弾ませるロイを気遣って、ハボックは速度を落とす。足を止め膝に両手をつくようにして前屈みになって、息を整えるロイの背をハボックは大きな手で撫でた。
「ご、ごめん」
「少し休みましょう」
 殆ど息を乱していないハボックを見て、ロイは己の腑甲斐無さに唇を噛み締めた。
「鍛え方が違いますもん」
 情けないと呟くロイにハボックが言う。泣きそうな顔で見上げてくるロイの黒髪をハボックがクシャリと掻き混ぜた。
「すんません、オレが馬鹿でした」
「ハボック?」
「油断してたっス。まだ暗殺事件が解決してないのに二人きりで出かけるなんて」
 チェン達を連れてきていればこんなことにはなっていなかった。ロイがなんと言おうとベスパなど使わず車で案内すべきだった。
「オレはSP失格です」
 そう言うハボックの腕をロイは慌ててギュッと掴む。
「そんなことはない!今日のことは私の浅慮が招いた結果だ!」
 カウィルを出る時散々に言われてきたのだ、努々(ゆめゆめ)油断するなと。それなのにハボックといることの楽しさに己の立場を忘れて浮かれていた。ほんの一時(いっとき)でいいから夢を見たいと思ってしまった。
「ハボック、私は」
「殿下」
 揺れる黒曜石に見つめられてハボックは息を飲む。その白い頬をハボックが大きな掌でそっと撫でた時、すぐ側で犬が吠える声がした。
「「ッ」」
 ビクッと震えて互いに見つめあう。頬に触れた手を下ろしてハボックは言った。
「行きましょう、殿下」
「ああ」
 小さく頷きあって、二人は再び歩きだした。


「まだ追ってきてるんだろうか?」
「ええ、間違いなく」
 ハボックに手を引かれて足早に歩きながらロイは肩越しに振り向いて言う。いつまた撃たれるのではと思うと振り向かずにはいられず、ロイは転(まろ)ぶようにしてハボックについていった。
「殿下かヤツか、どっちかが死なない限り追ってくるっス」
「ッ?!」
 ハボックの言葉にロイがギョッとして足を止める。つられて足を止めたハボックが振り向けば、大きく見開いた黒曜石と目があった。
「どう、したらいい?」
「殿下?」
「どうにかするつもりなんだろう?」
 そう尋ねられてハボックは一度ロイから目を逸らす。それから視線を戻して答えた。
「殿下を安全な場所に送り届けたらヤツを始末します」
「ハボック」
「こんな事になったのはオレのせいっス。オレは恐らくSPを解任されるでしょうけど、その前にアンタに危険を及ぼそうとするものは排除します」
「ハボック!」
 低く告げる言葉にロイはキッと目を吊り上げてハボックを睨む。
「何故私を送り届けたらなんだ?ヤツを倒すと言うなら一緒に────」
「殿下を危険な目に遭わせるわけにいかないっス」
「ヤツが狙ってるのは私だ。だったら私が囮になれば────」
「殿下ッ!」
「勝手に一人で決めるなッ!」
 言いかけた言葉を何度も途中で遮られて、ロイは大声で怒鳴った。暫し睨み合った後、先に口を開いたのはハボックだった。
「これはオレの仕事っス」
「私の事件だ」
 言えば即座に言い返してくるロイにハボックは眉を顰めた。
「いいっスか、殿下。今ここで一番優先すべき事項はアンタの安全っス」
「お前の安全もだ」
「オレはSPっスよ?」
「だから?SPは人間の姿をした楯だとでも言うのか?護衛対象を護る為なら命を落としても構わないと?そんなの絶対認めない。お前があの男をどうにかすると言うなら私も協力する。これは私の、カウィルの問題だ。お前一人でどうこうする話じゃないッ」
 言葉を続けるうち気持ちが昂ってきたのだろう、大声を張り上げるロイにハボックはため息をつく。目を逸らすハボックを見ていれば不意に堪らなくなって、ロイはハボックの胸に縋りついた。
「殿下」
「ハボック、私は……っ」
 厚い胸に顔を埋めて縋りついていれば、腕が体に回されるのを感じてロイは目を見開く。
「殿下……」
 降ってくる掠れた声にロイは顔をクシャリと歪めて縋りつく手に力を込めた。
「……ッ」
 そのまま互いになにも言わずに抱き締めあう。少ししてそっと体を離すとハボックが言った。
「ヤツを始末します」
「私はなにをすればいい?」
 言って見つめてくる黒曜石に、ハボックは苦笑してため息をついた。
「本当にアンタって人は」
 仕方のない、と大きな手に頬を撫でられて、ロイは目を細めてその手に顔を擦りつける。その猫のような仕草にハボックは観念したように言った。
「判りました。危険を承知の上でお願いします」
「ああ」
 漸く待ち望んだ言葉をハボックが口にするのを聞いて、ロイは鮮やかな笑みを浮かべた。


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