深淵に偲ぶ恋  第二十一章


 ロイの手を引いてハボックはコロッセオの外へと飛び出す。迷うように一瞬辺りを見回したものの、次の瞬間人波を縫って走り出した。
「ハボック、ベスパはっ?」
 あれに乗って逃げた方が暗殺者を引き離せるのではないのか。そう思って尋ねたロイは、通りかかった店の中にいきなり飛び込んだハボックに引っ張られるように店の中に駆け込んだ。
「うわッ」
 突然の方向転換に体が捻れてロイは悲鳴を上げる。客達が驚いて悲鳴や罵声を上げる中、二人は店の中を駆け抜けた。
「ベスパに乗って背中から狙い撃たれたら堪んないっス」
 前を見据えたままそう答えるハボックにロイは目を見開く。ハボックとロイが入ったのとは別の出入口から外へと飛び出した時、店の中から悲鳴が聞こえて誰かが倒れる音がした。
「ッ?!誰か撃たれたッ!」
「嘘だろ、巻き添え関係なしかよ」
 肩越しに振り向いて叫ぶロイの声にハボックが呻くように言う。その間にも速度を緩めることなく、ハボックはゴチャゴチャと露店が並ぶ細い通りへと曲がった。曲がる瞬間背後に視線を向ければ明らかにそうと知れる男が二人の後を追ってくるのがハボックの視界の隅に入る。ハボックは手近の露店の屋根を支えるポールを掴むと思い切り引き倒した。
「うわあッ?なにするんだッ!!」
 大事な商品ごと店をひっくり返された男が悲鳴を上げるのに構わず、ハボックは近くの荷台をひっくり返し、商品が並べられた棚を引き倒す。ころころと転がる大量のフルーツやひっくり返った店の土台に行く手を阻まれて、男が忌々しげに顔を歪めるのを目の端に捉えながらハボックはロイの手を握り締めて露店が並ぶ通りを走り抜けた。
「ハボック!……ごめんっ」
 逃げるためとはいえ関係のない市民の店を壊し商品を台無しにしたことを、ロイは小声で謝罪してハボックについて走る。そんなロイの手を引っ張るようにして、ハボックは通りに面したアパートの階段を駆け上がった。
「どこに行くんだッ?」
 必死に走りながらロイはハボックに尋ねる。そうすれば二階の廊下を無言のまま走ったハボックは、突き当たりの部屋の鍵を腰から引き抜いた銃で撃ち抜いた。
「ハボックッ?」
 ギョッとするロイに構わずハボックはドカドカと部屋の中を駆け抜ける。上がる悲鳴にチラリと視線を向けたロイは、目をまん丸に見開いた女性が壁に張り付くようにして立っているのを見た。
「ハボックッ、無茶苦茶なことをっ、──── うわッ?!」
 狭いベランダに飛び出したハボックが、ロイの体を抱え上げ柵を乗り越えて下に飛び降りる。ふわりと体が浮く感覚に、ロイは悲鳴を上げてハボックの首にしがみついた。
「ハボ……っ、ハボックッ!」
「殿下、まだ走れるっスねっ?」
 タンッとロイを抱いたまま下に飛び降りたハボックは、ロイの足を地面に下ろして言う。あまりのことに目を見開いて絶句するロイの頬を、ハボックは軽く叩いた。
「しっかりして!とにかくヤツを撒いてホテルまで行きます。大丈夫、アンタに指一本触れさせません」
 真っ直ぐに見つめてくる空色をロイは見上げる。ロイの視線を受け止めて笑みを浮かべて頷くハボックに、ロイも笑みを浮かべた。
「まだ幾らでも走れる、大丈夫だ。でも、悪いことをした」
 ロイはそう言ってすまなそうに出てきたベランダを見上げる。
「仕方ありません、アンタを護るのが最優先ですから。行きますよ!」
 きっぱりと言い切って走り出すハボックについてロイも走り出す。心の中で迷惑をかけた人たちに謝りながらも、自分が少しでも早くホテルに帰ることが巻き込む人を少なくする方法なのだと悟った。
「街中で発砲するなんて」
 さっき聞こえた悲鳴を思い出してロイは唇を噛み締める。
(どうか大した怪我じゃありませんよう)
 ロイはそう願いながら狭い通りをハボックと共に走っていった。


「くそッ!」
 熟れたトマトを踏みつけた拍子にズルリと滑って、男は忌々しげに怒鳴る。丁度手元にあったトマトを掴むと、思い切り露店の看板に叩きつけた。
「逃げられると思ったら大間違いだ」
 男はそう呟くとゆらりと立ち上がる。遠巻きに見つめてくる視線を恐ろしい形相で払いのけると、ハボック達が走り去った方向へと歩きだした。


「殿下、ちょっと待って下さい」
 幾らでも走れると言ったものの流石に息が切れてきているロイを路地裏の木箱に座らせて、ハボックが言う。ハボックはポケットに入れてあったコムを操作しながら右耳にいれたイヤホンに耳を傾けていたが、チッと舌を鳴らすとイヤホンを耳から引き抜いた。
「繋がらないっス」
 どうやらさっき落とした拍子に駄目にしてしまったらしい。肝心なときに役立たずのコムをポケットに突っ込んで、ハボックはロイを見た。
「チェン達には定期的に連絡を入れる事になってます。こっちからの連絡がないことで何か事が起きてるってことはいずれ判る筈なんスけど、最後に連絡したのが襲撃された直前だったんでまだ当分助けは望めない事になります」
 そう言われてロイは目を見開く。それでも自分を見つめてくる空色を見返して、ロイは笑みを浮かべた。
「でも、お前が私を安全な場所に連れていってくれるんだろう?ちゃんと一緒に帰ってくれるんだろう?」
「殿下」
「一緒でないと嫌だからな」
 囮になるから逃げろなどと言われるのだけは絶対に嫌だと思いながらロイは言う。縋るように見つめてくる黒曜石に、ハボックは目を逸らしてため息をついた。
「そういうのは反則っス」
「え?」
 こんな時だというのにその黒曜石で見つめられれば気持ちを掻き乱されてしまう。
「……大丈夫。ちゃんとオレがこの手でアンタを安全な場所まで連れていきます」
「ハボック」
 そう告げる言葉にホッと安堵の笑みを浮かべるロイを、ハボックは複雑な気持ちで見つめていた。


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