深淵に偲ぶ恋  第十九章


 ロイは風を切ってベスパを走らせる。風は随分と冷たかったが、今のロイにはこの風の冷たさが心地よかった。
「次の角、右っス」
 背後から聞こえる声にロイは微かに頷いてハンドルを切った。ごく間近から聞こえる声や腰に回された腕が、ロイの体温を上げ心臓の鼓動を速める。風の冷たさがなかったらきっと今頃みっともないくらい顔が紅く染まって、言い訳に困っていたに違いなかった。
(いつの間に好きになってたんだろう)
 ベスパを走らせながらロイは記憶を遡っていく。そうすれば初めてアメストリスに降り立ったあの時に見た空色が思い出された。
(なんだ、そうだったのか)
 最初に惹かれたのは空港に降り立ったあの瞬間だったのだ。その時は気づかずに、芽吹いた芽は一緒に過ごすうちいつの間にか心にしっかりと根付いてしまっていたのだと今更ながらに気づいて、ロイは吹き付ける風の中苦笑した。
(全く間抜けな話だ)
 あの時気づいていたならこんな風に想いを抱える前にその芽を引き抜いてしまえたのだろうか。そう考えてみてロイは考える事の無意味さに思い至る。
(考えたところで私の気持ちは変わらないし、ハボックとの関係も変わらない。私は暗殺事件の片がつけば国に戻る来訪者で、ハボックは私を守るSPだ。ハボックが私に良くしてくれるのはSPの仕事の延長なんだ)
 自分に向けられる微笑みが思いの外優しいから余計な誤解をしたくなるだけだ。
(ハボック、私は)
 背中に感じる温もりに縋りつきたくなる気持ちを押さえ込んで、ロイは冷たい風の中ベスパを走らせていった。


「凄いな」
 市街地のど真ん中にある大きな闘技場の遺跡を見上げてロイは呟く。首を仰け反らせて外観を見上げるロイにクスリと笑って、ハボックはロイを促した。
「殿下、あっちから中に入れますよ」
「ああ、うん」
 その声に頷いて、ロイはハボックと並んでコロッセオの外観に沿って歩き出す。少し行くと見えてきた入口の側にベスパを停めて、ロイはハボックがチケットを買うのを待った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 差し出されたチケットを受け取ってロイはコロッセオの入口を潜る。外周に沿った通路を歩きながら、ロイは中央のおそらくは闘技場であった方向に向けて設えられた観客席の跡を見て言った。
「あそこに座って競技を見たのか」
「そうっスね。一階は大理石張りの貴賓席だったらしいっスよ。あの頃生まれてたらアンタ、あそこで見てたんでしょうね」
 そんな風に言われてロイは観客席跡に近寄る。剥き出しの石造りのそれにそっと触れてロイは言った。
「大理石は残ってないんだな」
「他の建築に使うんで殆ど剥がされちまったって話っス」
「なんだ、夢のない」
 大理石が残っていたらほんの一時でもその当時の気分に浸れたのではないかと、ロイは残念そうにため息をつく。
「こっちの階段から二階に上がれるっスよ。中の造りが一望出来るっスから行ってみましょう」
「ああ」
 ハボックが言うのに頷いてロイは通路に戻ると、ハボックと一緒に階段を上がった。
「うわ……」
 二階の通路からは一階の貴賓席跡と抜け落ちた床の下に広がる地下の様子が見える。視線をあげれば闘技場を挟んだ向かいの通路や三階の通路が見えて、ロイは感嘆の声を上げた。
「凄いな、あの地下を細かく区切っているのはなんだ?」
「えっとね……」
 口ごもる声に振り向けばハボックが小さな本を繰っているのが目に入って、ロイはクスリと笑った。
「なんだ、よく知ってると思ったらあんちょこか?」
「仕方ないっしょ。オレはガイドじゃないんスから」
 からかうような口調にハボックはムゥと唇を突き出す。それでも本をめくって目当てのページを見つけると、ロイが求める答えを口にした。
「あれは競技に使う猛獣を入れておいた檻や格闘家の控え室の跡っスね。当時は昇降機があってそれを使って闘技場に出入りしてたらしいっスよ」
「昇降機……エレベーターか。凄いな」
 そんな昔にエレベーターがあったとは驚きだ。頻りに感心するロイにハボックが言う。
「囚人を入れておく檻もあったらしいっスから、そいつらの人力で動かしてたんスよ、きっと。凄い眺めだったでしょうね」
「…………現実的な事を言うな」
 華やかな闘技の様子を思い描いていたらしいロイは頬を膨らませて言うと、中央を見下ろす通路の手摺りにもたれ掛かって下を見た。
「でも、やっぱり凄いな。こんなものが市街地のど真ん中に残ってるのも凄い」
「そうっスね」
 ロイの言葉に頷いて、ハボックはロイの横に並んで下を見下ろす。そんなハボックの横顔をチラリと見上げて、ロイは嬉しそうに微笑んだ。


 ベスパを入口に停めコロッセオの中に入っていく二人の後を追うように、男はコロッセオの入口を潜る。なにやら話ながらゆっくりと通路を歩いていく二人の数メートル後をつけていた男は、ハボックとロイが二階への階段へと足を向けるのを見て、足を速めると二人を追い越して通路を先へと進んだ。そうして通路を半周ほども進むと二人が上がったのとは別の階段で二階へ上がる。二階の通路へ出れば床が抜けて地下の設備が剥き出しになった闘技場を挟んだ向かい側に、小さく二人の姿が見えた。
「さて、もういい加減楽しんだろう。そろそろ終わりにさせて貰おうか」
 男はそう呟くと朽ち落ちた観覧席の奥へと入っていく。他の観光客の目につき難い場所へ入り込むと、手にしていたケースを床に置いた。カチッと留め具を外して蓋を開ければそこに入っている鈍い銀色の光を放つものを見て、男は唇の端を歪めて笑みを浮かべる。
「さあ、その額に綺麗な花を咲かせてやろう」
 男は楽しそうに呟くとライフルをケースから取り出した。


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