深淵に偲ぶ恋  第十八章


「ここがトレヴィか」
 噴水と一言で済ませてしまうにはあまりにも大きいそれにロイは目を見開いて呟く。泉を模した有名な観光名所でもある噴水は、跳ね上がる飛沫が冷たいほど大量の水をたたえていた。
「凄いな、想像してたのと全然違う」
「大概みんなそう言いますね」
 ロイの言葉にハボックが答えて言う。様々な神話をモチーフにした彫刻があちこちに据えられ、その間を大量の水が縫うように流れ跳ね上がり落ちるその様は、見る者の目を奪って止まなかった。大きな音を立てて一番下まで流れ落ちた水は、薄青い光をたたえて彫刻の群を囲んでいる。その縁に腰掛けたたくさんの人々が肩越しに背後に向けてなにやら投げ込んでいた。
「あれはなにをしているんだ?」
「願い事をしてるんスよ」
 不思議そうにロイが言えばハボックが答える。よく判らないと眉を顰める様が可愛いと思いながらハボックは続けた。
「ああやって後ろ向きにコインを投げ入れるんです。うまく入れば願い事が叶う。投げるコインの枚数によって叶う願いが決まってるんスよ」
「へぇ、面白いな」
「やってみます?」
 興味を駆られた様子のロイにハボックが言う。ハボックはポケットからコインを取り出しながら説明した。
「コイン一枚ならもう一度ここへくることが出来る。二枚なら大切な人と永遠に一緒にいることが出来、三枚は恋人や夫、妻と別れることが出来る」
「……え?」
 コインの枚数で叶う願い事を聞いたロイが目を見開いてハボックを見る。見つめてくる黒曜石を見返してハボックは言って掌に乗せたコインを差し出した。
「何枚投げますか?」
(大切な人と永遠に一緒にいることが)
 じっと見つめてくる空色に囚われたようにロイは身動きが出来なくなる。もし、コインを二枚投げたなら、このままずっとこの空色と一緒にいることが出来るのだろうか。
「私は」
 単なる言い伝えなのだろうと頭では判っている。それでもそんな言い伝えにすら縋りつきたくなるほど、ロイの中でハボックの存在は大きなものになってきていた。
「殿下?」
 揺れる黒曜石で己を見つめたまま、コインを手にとることも何か言うこともないロイにハボックが首を傾げる。その声にハッとしたようにロイはビクリと震えた。
「あ……、と……、じゃ、じゃあ、一枚でっ」
 ロイはそう言って大きな掌の上のコインを一枚だけ摘む。
「いいんですか?一枚で」
「ああ、う、うん。一枚でいい」
 ロイが笑って頷くのを見てハボックは残りのコインをポケットに戻した。コインが戻されたポケットをほんの一瞬見つめたロイは、殊更明るい笑みを浮かべて言う。
「じゃあ、投げるから。上手くいくか見ててくれ」
「はい」
 ハボックが頷くのを見て、ロイは泉の縁に腰掛ける。掌のコインを一瞬強く握り締めて、ロイは右手に持ったコインを左の肩越しに泉に向かって投げた。
「入ったか?」
 流れる水の音が大きくて、コインが泉に落ちた音がしない。縁に手をついて体を捻り泉の中を覗き込むロイに、ハボックが言った。
「ちゃんと投げてましたよ。入ったと思います」
 ロイの体の陰になってコインが泉に落ちた瞬間は見えなかったが、あの角度なら間違いなく中に入ったろう。ハボックの答えにロイはホッとしたように笑みを浮かべた。
「そうか。ならカウィルに戻ってもまたここへ来られるな。よかった」
「そうっスね」
 嬉しそうに言って泉の彫刻を見上げるロイの横顔をハボックは見つめる。ロイにコインを差し出した時、彼が一枚しか取らなかった事にホッとしていた自分を思い出して、ハボックは内心苦く笑った。
(殿下に永遠に一緒にいたい程の相手がいたらどうだっていうんだ。オレには関係のないことだろう?)
 ロイに好きな相手がいようがいまいが、ハボックは口を挟める立場にない。どんなにロイに惹かれていようが自分はただのSPで、ロイは大切な護衛対象でしかなかった。それでも。
(今ここで殿下に願い事に縋りたいほど大切な相手がいるって見せつけられなくてよかった、かな)
 叶う想いでないのは判っていても、今こうして側にいる間はせめて想いを抱いていることを赦して欲しい。ハボックはそう思いながらロイの顔を見つめ続けていた。


(二枚、投げればよかったかな)
 ロイは水飛沫を受ける彫刻を見つめながら思う。一枚入ってもう一度ここへ来ることが出来るかもしれないと思えば、次はもっとと欲が出る。二枚投げたらもしかしたらハボックと一緒にいられたかもと考えて、ロイは浮かれた自分の考えに心の中で苦笑した。
(馬鹿だな、私は。そんな願いが叶う訳もないのに)
 いずれ自分はブラッドレイの後を継いでカウィルを治めなければならない。正直本当にもう一度アメストリスを訪れる事があるかどうかも、はっきりとは判らなかった。
(一緒にいたい、ずっと一緒に)
 いっそのことカウィルに帰る時にハボックを引き抜いて連れて帰ってしまおうか。そんな出来もしない考えが頭を過(よぎ)る。
(やめろ、もう。考えるんじゃない)
 叶う筈もない想いだ。考えるだけ辛くなるだけなのだから、せめて一緒に過ごせる今この時だけを楽しんだ方がいい。
「殿下、そろそろ行きましょうか?」
「そうだな。次はコロッセオだったか」
 ロイはハボックの声に頷くと彫刻へ向けていた視線を戻して立ち上がり、にっこりと笑ったのだった。


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