深淵に偲ぶ恋  第十七章


「そうか、判った。ああ……ああ、じゃあな」
 男は短く何度か頷くと受話器をフックに戻す。咥えていた煙草を灰皿に押しつけると机の上に広げられた写真を一枚取り上げた。
「ロイ・マスタング公か……。楽しい時間を過ごしている間に終わりにしてやるよ、優しいだろう?俺って」
 楽しそうに男はそう呟いて見つめた写真には笑顔のロイが写っている。男はその写真を灰皿に放り投げると新しい煙草を取り出しマッチで火を点けた。まだ火が消えていないマッチを写真の上に放ればロイの笑顔がくしゃりと歪み焔に包まれていく。男は懐に手を入れ銃を取り出し具合を確かめ再び懐に戻すと、楽しげな足取りで部屋を出ていった。


「またベスパで行くんスか?車の方が安全だし、今回は車で────」
「ベスパがいい」
 ハボックの言葉を遮ってロイが言う。困ったように見下ろしてくる空色を見上げて、ロイは言った。
「せっかくいい天気なんだ。車じゃつまらんだろう?」
「寒がりのくせに」
 ボソリとハボックが言った言葉は聞こえなかった事にする。ロイはベスパに乗りやすいよう丈の短いブルゾンを羽織ると扉に向かった。
「行くぞ」
 そう言ってノブに手を伸ばせば背後からフワリと首にマフラーが巻かれる。驚いて振り向いたロイにハボックがしっかりとマフラーを巻き付けた。
「ちゃんとあったかくして。はい、手袋も」
「……ありがとう」
 ロイは紅く染まった頬を隠すようにマフラーに顔を埋めて呟いた。


「またアンタが運転するんスか?」
「当然だろう」
 レンタルショップで紅いベスパを借りると、嬉々としてハンドルを握るロイにハボックはため息混じりに言う。嬉しそうにスクーターのボディを撫でるロイの横顔を見つめて、ハボックはやれやれとため息をついた。
(まあ、いいか。オレが後ろの方が万一背後から撃たれるってこともないだろうし)
 とりあえずロイの運転技術が人並みなのは判っている。先日はかなりハイテンションでスピードを出したりもしていたが、二回目ともなればもう少し落ち着いて走るようになるだろう。
「くれぐれも安全運転でお願いしますね」
「大丈夫だ、まかせておけ」
 それでも一応念押しするように言えばロイがニッと笑って答える。ハボックはベスパに乗る前に地図と広げるとロイに見せた。
「レオーネ通りを通って行きましょう。青空市場があるからベスパ降りて歩くのも楽しいっスよ。それからトレヴィに寄ってからコロッセオへ」
「判った」
 ハボックが地図上で示す道順を確認してロイが頷く。
「走りながらでも角に来たらいいますから」
「そうしてくれ」
 地図を畳んで懐にしまいながらハボックが言えばロイは答えてベスパに跨った。その後ろにハボックが乗りロイの腰に手を回す。厚いブルゾンを着ていてさえ細いそれに、ハボックは困ったように眉を顰めた。
(女の子より細いっての)
「何か言ったか?」
「── いえ、なにも」
 無意識に漏らした呟きを聞き咎められて、ハボックは何でもないように答える。
「行くぞ」
 声と同時にベスパが走り出せば、ハボックは抱き締めるようにロイの腰に回した腕に力を込めた。


「凄いな、なんでもある感じだ」
 結局走り抜けるでなくベスパから降りて、青空市場の店先を覗きながら二人は歩く。カウィルでは見かけない種類の果物や花を売る店を面白そうに眺めるロイに、ハボックが言った。
「あそこの店では好きな果物をジュースにして飲めるっスよ」
「そうなのか?」
 ハボックの言葉にロイが目を輝かせる。早速向かった店先で沢山並ぶ果物を前に悩むロイにハボックは笑って言った。
「別に一個じゃなくてもミックスにすりゃいいんスよ」
「あ、そうか」
 確かによっぽど突飛な組み合わせでなければ混ぜてもきっと美味しいだろう。店主に確かめながら選んだ果物で作ったジュースを口にして、ロイはにっこりと笑った。
「美味しい」
「よかったっスね」
「お前は飲まないのか?」
「オレはいいっス」
 ベスパを押しながらハボックは答える。ロイはそんなハボックをじっと見つめたが、手にしたカップをハボックの口元に差し出した。
「飲め」
「え?でも」
「美味しいぞ、味見だ」
 ニコッと笑うロイにハボックは内心ドキリとしながらも、ストローを口にする。一口吸ったそれは今まで飲んだどのジュースより甘く感じられた。
「旨いっス」
「だろう?」
 まるで自分で作ったようにロイは自慢げに言う。差し出していたカップを口元に寄せたロイがストローを咥えるのを見て、ハボックはなんだか恥ずかしくなって目を逸らした。
(子供かよ、オレは)
 そう思いながらもチラリとロイの口元を見てしまって、ハボックは内心大声を上げる。ガシッとハンドルを握り直すと、もの凄い勢いでベスパを押して歩きだした。
「えっ?ハボック?」
「次行きましょう、次。混んでくるとこれ、押しづらいしっ」
「え?あ、ああ。そうだな」
 何となく様子のおかしいハボックに、ロイは首を傾げながらも頷く。飲み干して空になったカップをゴミ箱に放り込むと、二人は再びベスパに乗って次の場所へと走り出した。


 男は賑わう通りをベスパを降りて歩いていく二人の後を一定の距離をおいてついていく。時折足を止めて店先を覗くのんびりとした様子に、男は嘲笑うような笑みを浮かべた。
(今ここで殺っても構わないが……、もう少し楽しませてやるか)
 ハボックにジュースを差し出すロイの、その白い額に紅く縁取られた風穴を開ける瞬間を思い描いて、男は低い笑い声を零すと二人の後を追った。


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