深淵に偲ぶ恋  第十六章


「なに、やってるんだろう」
 ドサリとベッドに倒れ込んだハボックは天井を見上げてそう呟く。珍しくまともな食事を与えられて落ち着き満足しきった体とは裏腹に、ハボックの心は辿り着く場所を探して彷徨っているようだ。その目指す先がどこなのか、考えたくなくてハボックは手の甲で目元を覆った。
「こんな事、今までなかったぞ」
 これまで色んな人物の護衛を担当してきた。若いうちからその腕を認められ、国家元首クラスの要人にSPとしてついたことも一度や二度ではない。今回もそうした経歴を知った上層部がハボックを是非と指名してきたのだ。指名されたからにはハボックはただ、ロイがアメストリス滞在中、その身に危険が及ぶ事なく快適に過ごし、何事もなくカウィルに帰れるようロイの身辺を警護すればいいだけの筈だった。
「観光に連れ出したり、一緒に食事したり……そんなのSPの仕事じゃねぇっての」
 わざわざ口にせずともそんなことはよく判っている。それならどうしてこんな事をしているのかと己の心に問いかけようとして、ハボックは慌ててその問いかけを握り潰した。
『一緒に食べてくれないか?一人の食事は味気ない』
 食事を用意させると言えばそんなことを言い出したロイの言葉が不意に浮かぶ。
『一緒に……駄目か?ハボック』
 寄辺のない子供のような縋る瞳で見つめられ、とくりと心臓がいつもと違う鼓動を刻んだのは決して気のせいではなかったはずだ。子供のように苦手な人参を皿の隅によけている様が妙に可愛くて、からかうように食べろと促した。『子供か』と目尻を染めて睨んでくるロイの口元に人参を突き刺したフォークを差し出した事を思い出して、ハボックは頭を抱えてシーツに顔を埋める。思い返せばあまりに恥ずかしい己の行為に、ハボックは顔を紅くして呻いた。
『……甘い』
 口に含ませた人参の甘さに目を丸くしたロイが、自分を見つめてにっこりと笑う。その顔を思い出したハボックは、必死に目を背けようとしていたロイへの己の気持ちを正面から覗き込んでしまった。
「駄目だろう、なに考えてんだ、オレは」
 SPの仕事をするようになって、誰に対しても距離を置くようにしてきた。個人的な感情は仕事の妨げになると思っていたし、増してやそれが護衛対象なら以ての外だ。どうしてこんな気持ちを抱いてしまったのか、考えてハボックは空港でロイを出迎えた時の事を思い出した。タラップから降りてくるロイの、美しい黒曜石の瞳。端正な顔立ちよりもしなやかな体つきよりもその瞳に一瞬で心を奪われていた。
「一目惚れかよ、有り得ねぇ……」
 優秀なSPであり得たのは、身体的な能力以上に自分の感情をコントロールする事に長けていたからだ。そんな自分があの一瞬で気持ちを奪われていたなど、とても信じられなかった。それでも。
「くそ……っ」
 扉の向こうにいる人に気持ちが向いている事実は消しされない。ゴロンとベッドに仰向けになって、ハボックは天井を見上げた。
「しっかりしろ、ポーカーフェイスは得意だろう」
 己の気持ちに気づいたところでそれを表に出すことは決して赦されない。
「オレがすべき事は殿下を守って無事カウィルに帰すことだけだ」
 SPである自分がなすべきはそれ以上でもそれ以下でもない。暫くの間天井を睨み上げていたハボックだったが、乱暴な仕草で起き上がると服を脱ぎ捨てシャワールームに入る。頭上から降り注ぐシャワーの滴が己の想いを流してくれるとでも言うように、ハボックは長いことシャワーの下に立っていた。


 ぽっかりと意識が浮かび上がってロイはベッドの中でゆっくりと目をあける。まだ薄暗い部屋の中、枕元に置いた懐中時計に手を伸ばせば、針はまだ漸く五時を回ったところだった。
「ん……」
 出かける予定はあるとはいえ休みの日なのだから早く起きる必要もない。だが、今日はハボックと出かけるのだと思えばもうすっかり目が覚めてしまい、とてもベッドの中にはいられなかった。
「さむ……」
 もそもそとベッドの上に起き上がるとブランケットの中の暖かい空気が逃げて、ロイは身を竦ませる。それでも「えいッ」とばかりにブランケットを跳ね上げて、ロイはベッドから降り窓辺へと近づいた。
 まだ夜明け前の街は街灯の灯りが寂しく灯るばかりで人影は殆どない。遠く地平線を見ればうっすらと光が滲んで、もうすぐ陽が昇るのだと告げていた。
「今日も天気が良さそうだ」
 まだ明けてはいないものの空には雲の欠片もない。晴れた空の下ベスパで走るのはきっと気持ちがいいだろうと、ロイは夜明けを待つ街並みを見下ろして笑みを浮かべた。


 夜が明けるのをジリジリしながら待っていれば昇る陽に照らされる街の美しさに目を奪われて、ハッと気がついた時にはもうすっかりと夜は明けていた。人の気配にリビングへ続く扉を開ければ、コーヒーの支度をしていたハボックが顔を上げてにっこりと笑った。
「おはようございます、殿下」
「おはよう、ハボック」
「よく眠れたっスか?」
 いつものように聞いてくるハボックにロイは椅子に腰掛けながら頷く。
「でも、早くに目が覚めてしまった。おかげで陽が昇るのを見られたよ」
「へぇ」
 ロイの言葉に笑ってハボックは朝食を届けるよう電話を入れる。少しして届いた朝食が二人分あるのを見て、ロイは嬉しそうに笑った。
「行くところ、決めたっスか?」
「うん、あのな」
 尋ねられてロイは、夕べ悩んで漸く決めた場所を指折り数えて告げたのだった。


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