深淵に偲ぶ恋  第十五章


「そうだ、殿下。明日は講義お休みっしょ?またどこか見物に出かけますか?」
 一日の予定を終えてホテルの部屋に戻ってくると、ハボックはロイの上着の埃を払ってハンガーにかけながら言う。ぼんやりと窓から外を眺めていたロイは、その言葉に目を瞬かせた。
「いいのか?」
「構いませんよ、どこか行きたいところ、あるっスか?」
 そう尋ねられてロイはウーンと考える。すぐには思いつかない様子のロイに、ハボックは笑みを浮かべて言った。
「明日までに考えておいてくれたらいいっスよ。オレも幾つか見繕っておきますから」
「ああ、判った」
 思いつかなかったら無しにされてしまうだろうか、何となくそんな不安に駆られていたロイはハボックの言葉に内心ホッとする。そんなロイの心の動きになど気づかず、ハボックは受話器を手に取った。
「食事の準備をさせます。腹減ったでしょ?」
 そう言ってボタンを押そうとするハボックをロイは慌てて押し留める。受話器を戻し、なんだ?と不思議そうな顔をするハボックにロイは言った。
「その……一緒に食べないか?」
「えっ?いや、でもオレは仕事ちゅ────」
「これも仕事だと思えばいいだろうッ!」
 ロイが食事をする間、ハボックを始めチェンたちも決して一緒に食事をとることはなかった。ロイが静かに食事をとれるよう気を配り、自分たちはほんの僅かな間に交代で腹を塞ぐのが常だった。だが、ロイにはそれが寂しくてならない。増してや自分の中に息づくハボックへの特別な感情を、困惑しつつも自覚してしまった今となっては尚更だった。
「一緒に食べてくれないか?一人の食事は味気ない」
 正直なところを言えば、カウィルにいる間も食事は一人でとることが多かった。父であるブラッドレイは多忙であったし、たとえ一緒に食事をとったとしても、和気藹々と会話を交わす家族の食卓をとは程遠いものであった。それでもロイの周りには気のいい料理人や側仕えの者がいて、なんやかやと気を回してくれる。一人の時も父と一緒の時も、その食卓は決して(うら)淋しいものではなかった。
「一緒に……駄目か?ハボック」
 ロイは言ってハボックを見つめる。縋るような黒曜石に何故だかドキリとしながらも、ハボックは何でもない風を取り繕った。本来護衛対象とは距離を置かねばならない。街を案内する事も本当なら自分の仕事ではない筈で、更にこの上一緒に食事をするなどいつもの自分なら考えられないと思いながらもハボックは答えた。
「料理、追加で作らせる事になるんで少し食事の時間が遅くなりますけど、それでもいいっスか?」
「ッ、勿論だ!大丈夫、腹は減ってな────」
 そう言いかけた途端、腹の虫がグゥと鳴ってロイは顔を赤らめる。一瞬目を見開いたハボックがクスクスと笑えば、ロイは益々顔を赤くして言った。
「へっ、平気だッ、まだ我慢できるッ!だからっ」
「急いで作ってくれるよう、頼んでみますね」
 皆まで言わせずそう言うハボックに、ロイは顔を輝かせる。素直に喜びを表すロイに「可愛い」と言いそうになって、ハボックは慌てて言葉を飲み込むと受話器を取り上げボタンを押した。必要な事を口早に伝えて電話を切るとロイを振り返る。
「オッケーだそうです。三十分ほどで持ってきてくれますから」
「判った」
 そう聞いて嬉しそうに頷くロイにハボックが言った。
「ちょっと連絡入れてきます。すぐ戻るっスから」
 言ってハボックは玄関脇の小部屋に姿を消す。ロイは窓辺に寄ると笑みを浮かべて眼下の景色を見下ろしていた。


 ぽつりぽつりと他愛ない話に言葉を交わしてハボックとロイは食事を進める。時折訪れる沈黙も決して嫌なものではなく、ロイはアメストリスに来てこんなに美味しい食事は初めてだと思った。
「殿下、人参も食わなきゃ。大きくなれないっスよ」
「子供か、私は」
 苦手な人参を皿の端によけておけばそんな事を言うハボックをロイは睨む。そう言うハボックこそブロッコリーをよけている事に気づいて、ロイは言った。
「お前こそそのブロッコリーはどうした。大きくなれんぞ」
「このブツブツした感じが苦手なんすよ。それにオレはこれ以上大きくなる必要がないからいいんです」
 そう言ってハボックは胸を反らしてロイを見下ろす。確かに長身のハボックはこれ以上大きくならずとも別段困ることはなさそうだった。
「人に好き嫌いをなくせと言うなら自分が率先しろ」
 それでも尤もな事を言い返すとハボックが「むーん」とブロッコリーを睨む。フォークに突き刺し口に放り込むとゴクンと丸飲みした。
「食べたっスよ。ほら、殿下も食べて」
「……喉に詰まらせるぞ」
 呆れたように言う口元にハボックがフォークに突き刺した人参を差し出す。ちょっぴりドキリとしながらも口を開けばハボックがロイの口に人参を含ませた。
「……甘い」
「美味いっしょ?アメストリスの人参は美味いんスよ」
 まるで自分の手柄のように言うハボックにロイは笑みを浮かべる。見つめてくる空色に心を躍らせて、ロイはハボックとの食事を楽しんでいた。


「久しぶりに美味しい食事だったな」
 ポチャンと湯船の湯を揺らしてロイは呟く。無理を承知で一緒に食事をと強請れば叶えられた望みは思っていた以上に楽しくて、カウィルでさえこんなに楽しく美味しい食事はなかったと、ロイは幸せそうな笑みを浮かべた。
「明日はまた見物に連れていってくれるって」
 そう思うと胸がドキドキと高鳴ってくる。なんとはなしに掌で湯を掬ったロイは、小指でキラリと電灯の光を弾く王家の紋を刻んだ指輪に気づいて目を見開いた。
「なにを……浮かれているんだ、私は」
 今この瞬間もカウィルでは同朋が必死に駆け回っている筈なのだ。戻れる事になったならすぐにでも国の建て直しを計れるよう、準備をしておかなければならないと言うのに。
「少しだけ……今だけでいいから」
 ロイはそう呟くと掌でそっと指輪を包み込んだ。


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