深淵に偲ぶ恋  第十三章


 校内に授業の終わりを告げるベルが鳴り響き、ロイはホッと息を吐き出す。いつものようにチェンと、もう一人見慣れないSPが近づいてくるのを見て、ロイは眉を顰めた。
「今日、ハボックは?」
 ロイがアメストリスに来てからずっと、ハボックがロイの側にいなかったことはなかった。背の高い姿が見えないそれだけで、ロイは何となく不安で寂しかった。
「ボスはちょっと用事があるとかで出かけてます。講義が終わる頃には戻るって言ってたんで、そろそろ戻ってくると思いますけど」
 チェンが言うのを聞いて、ロイは「そうか」と呟く。ロイが教室の扉へと向かうのに付き従ったチェンが尋ねた。
「どうしますか?カフェテリアでボスを待ちますか?」
「そうだな……」
 ロイはゆっくりと廊下を歩きながら少し考えて首を振る。
「いや、だったら図書室に行くよ。少し調べたい事もあるし」
「そうですか。だったらそう連絡を入れておきます」
 ロイの答えに頷いてコムに向かって小さく囁くチェンをロイはチラリと見た。
(声が聞きたいな)
 そんな事を考えてチェンの横顔をチラチラと見ていたロイは、次の瞬間ハッとしてチェンから目を逸らした。
(なんだ、今の考えはッ!なんで声が聞きたいなんて……ッ)
 どうしてそんな考えが浮かんだのかさっぱり判らずロイは狼狽える。内心の動揺を押し隠して歩いていれば、階段の降り口に来ていたことに気づかず、ロイは踏み出した一歩が思ったところで地面を掴めずにガクンと体が沈み込んだ。
「うわ……ッ」
「殿下っ?」
 慌ててチェンが伸ばした手はロイの服の端を掴む。階段の上から落ちそうになった体が一瞬とはいえ支えられたその時、力強い手が伸びてロイの体を支えた。
「なにボーッと歩いてるんスか、アンタ!」
「ハボック!」
「ボス!」
 下から駆け上がって来たらしいハボックが目を吊り上げて言う。チェンがホッとして握り締めた服の端を離した。
「ありがとうございます、ボス」
「気をつけろよ、チェン。この人、結構ぬけてっから」
「はい、すみませんっ」
 階段の途中、ハボックの腕に支えられて立っていたロイは頭上から聞こえてきた声にムッとして視線を上げる。そうすれば息がかかりそうなほど間近にハボックの顔があって、ロイは心臓がドキリと跳ね上がるのを感じた。
「はっ、離せッ!別に支えて貰わんでも落ちたりしな────え?」
「う、わ……っ」
 思わず反射的に自分を抱え込むハボックの胸をドンッと思い切りついてしまえば、思わぬ事態に階段の途中に立つ二人のバランスが崩れる。まるでスローモーションのようにハボックとロイの体がフワリと宙に浮いた。
「ボス?殿下ッ!」
 チェンの叫び声がスローモーションのスイッチを切ったように、次の瞬間二人の体がドドドッッと階段を滑り落ちる。悲鳴を上げる事も出来ずロイは目の前の逞しい胸に縋りついた。
 時間にしてほんの十数秒、気がついた時にはハボックとロイの体は階段下まで滑り落ちていた。
「ボス!殿下!大丈夫ですかッ?!」
「イテテ……」
 顔色を変えてチェンが階段を駆け降りてくる。重なるようにして倒れている二人に近づくと、ロイの顔を覗き込んだ。
「殿下っ、お怪我は?!」
「だ、大丈夫だ……」
 驚きはしたもののどこか打ったところはなさそうだ。軽く頭を振って起きようとしたロイは、手をついた先が床ではなくハボックの胸であることに気づいてギョッとした。
「ハボックッ?!」
 自分がどこも打たずに済んだのはハボックがクッションになってくれたからだと気づいて、ロイはオロオロと手を出しかけては引っ込めてハボックの様子を見る。そうすればハボックが顔を顰めながらも体を起こした。
「どこも打ってないっスね?」
「私は大丈夫だっ、それよりお前が……っ」
「オレは大丈夫っス。頑丈に出来てますから」
 ハボックはそう言ってにっこりと笑う。ホッと息を吐くロイを、ハボックは困ったように見て言った。
「で……そろそろどいて貰ってもいいっスか?」
「え?……ッ?!うわッ、すっ、すまんッッ!!」
 床の上に起こした上半身を手をついて支えるハボックの腰の上に、跨るようにして座っていることに漸く気づいてロイは真っ赤になって飛び上がる。わたわたとハボックの上から退こうとして、ハボックの腿やら膝やらにゴリゴリと手をついたり膝をついたりしてしまい、その都度ハボックが僅かに眉を寄せた。
「あ、あ……ごめんッ」
「いいから、おちついて下さい、殿下」
 ハボックは手を伸ばしてロイの黒髪をポンポンと叩く。それからロイの両脇に手を入れると、ロイの体を軽く持ち上げ己の脚の上から下ろした。
「よっ……と」
 ハボックは床に手をつくとスッと立ち上がる。まだ座り込んだままのロイの手首を掴むと、グイと引き上げて立たせた。
「うわ……っ」
「本当にどこも打ってないっスね?」
 そう言いながらハボックは、確かめるように立たせたロイの背や脚や腕をさする。その大きな手に触れられて、ロイはドキドキしながら視線をさまよわせた。
「だっ、大丈夫だと言っただろうっ」
 慌てて答えた声は思いっ切り裏返っていて、ロイは恥ずかしくてカアアッと顔を染める。ハボックはそんなロイの様子にクスリと笑って黒髪をクシャリと掻き混ぜた。
「それならよかったっス。気をつけてくださいね」
「あ、ああ」
「ええと、図書館に行くんでしたっけ?行きましょうか」
 そう言って促すハボックと一緒に歩き出しながら、ロイは心臓が早鐘のように鳴り響くのを感じていた。


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