| 深淵に偲ぶ恋 第十二章 |
| 遠くでシャワーの水音がして暫くすると、扉を出入りする音が聞こえる。少しの間していた人が動く気配が消えるのを感じて、ハボックは咥えていた煙草を灰皿に押しつけた。やれやれと最後の煙と共に息を吐き出して、ハボックは立ち上がる。うーんと思い切り伸びをすると、ハボックは部屋の奥のシャワーブースへと入った。服を脱ぎ捨て頭からシャワーを浴びる。短い金髪にシャンプーを泡立てて洗うと、スポンジを取り逞しい体を手早く洗った。狭いシャワーブースには湯船などなく、ハボックは少しでも体の疲れがとれるようにとシャワーヘッドのダイヤルを回してジェット水流にすると、肩や首筋に集中的に当ててみる。それからもう一度ダイヤルを回してシュワシュワとたっぷりの空気を含んだシャンペンのような水流に変えて頭から被った。 「ふぅ……」 そんな風にして水流を変化させながらシャワーを浴びれば、湯船がなくても十分に体が温まり解れてくる。ハボックはちょっぴり無駄遣いと思える程の湯を存分に浴びると、シャワーを止めタオルで体を拭き下着だけをつけてブースを出た。 部屋はさほど広くなく、ベッドの他は椅子とテーブルでほぼいっぱいだ。ハボックは狭いスペースで軽い屈伸やスクワットをしてからベッドに上がり、百回程腹筋をした。 「よっと」 最後に起きあがる反動で足をおろしてベッドに腰掛ける。テーブルの上の煙草に手を伸ばし火を点けると、今日の出来事を記そうと手帳を手に取った。 「意外と子供っぽかったな」 記録するために一日の出来事を振り返れば、脳裏に浮かんだロイの姿にハボックは目を細める。美術館で真剣に絵を見つめる横顔や屋台で螺鈿細工の小箱を手にした時の嬉しそうな顔を思い出せば、心臓がトクンと音を立てて、ハボックは眉を寄せた。その音は聞こえなかったふりで、ハボックは手帳にペンを走らせる。記述するのに従って順繰りに脳裏に浮かぶロイが真実の口で泣きそうな顔で狼狽える様を思い出して、ハボックはプッと吹き出してしまった。 「ほんと、子供っぽい。普通あんなの信じないって」 クックッと笑いながらハボックは今日の日誌をつけ終わる。手帳をテーブルに放り投げるとそのまま背後に倒れ込み、ドサリとベッドに上半身を預けた。 「色々思うこともあるんだろうに」 暗殺事件に巻き込まれ、身の安全を確保する為とはいえ一人異国の地を踏んだ。本当は一刻も早く祖国に戻り、国の安定のためその力を振るいたいに違いない。呼び戻してもらうその日を、なにもする事なしにただ待ち続けるのは、どれほどにかもどかしく苛立ちが募っている事だろう。だが、ロイはそんなことは微塵も感じさせず、少しでも将来の役に立てばと文献を漁り様々な人から知識を得ようとしていた。 『今日はありがとう、ハボック。とても楽しかった』 不意にロイの言葉が脳裏に浮かぶ。 『とても、楽しかった。だからその……また、連れていってくれないか?』 そう言って眦を僅かに染める白い小さな顔を思い出せば、ハボックの心臓がトクリと音を立ててさっきよりももっと大きく震えた。 「別に必要以上に入れ込んだりしてない」 ハボックは誰に言うともなしに独り言つ。 「大切な賓客に快適に過ごして貰おうとしているだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」 まるで自分に言い聞かせるようにそう言って、ハボックは起き上がると灰が落ちそうになっている煙草を灰皿に押しつける。そうしてベッドに足をあげるとブランケットを引っ被り明日に備えて眠りについた。 「マスタング公を殺せなかったのは失敗だった。あそこで片を付けておけば……ッ」 暗く沈んだ室内で呻くように男が言う。そうすれば宥めるように別の声が答えた。 「ものは考えようでしょう。今マスタング公はアメストリスに滞在中ですが、カウィルにいる時よりは警備が手薄だ。まさか国の外で事が起きるなど全く考えていない。それならば今がマスタング公を亡き者にするチャンス」 「だがどうやってそれを実行するのだ?我々は疑われている。カウィルから出て公を殺しにいくなど不可能だぞ」 更に別の男が焦りを滲ませた口調で言えば、二番目の男がクツクツと笑った。 「そんなもの、そういう仕事を生業にしている者を雇えばいいだけの話。それに下手に我々に近い者を動かすよりプロを雇った方が、確実でこちらの身元も割れずに済むというものでしょう」 その言葉を吟味するように、部屋の中を暫し沈黙が支配する。少しして、最初の男が口を開いた。 「そうする気があるなら早い方がいい」 「では早速その手の者を雇い入れましょう」 それに答えて二番目の男が言う。 「マスタング公を亡き者にするのだ」 三番目の男が低く囁けば、賛同の声が返り低い笑い声が部屋に響いた。そうして男たちは静かに部屋を立ち去り、後にはひっそりとした闇だけが取り残された。 |
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