深淵に偲ぶ恋  第十一章


「あっ、ボス!」
 ホテルに戻ればロビーでうろうろと歩き回っていたチェンが、ハボックたちが戻ってきたことに気づいて駆け寄ってくる。ロイの顔を見てホッと息を吐き出して、チェンは言った。
「よかった、何かあったらどうしようかと思いましたよ」
「すまなかった、その……騙すような真似をして」
 言葉巧みに誤魔化して置き去りにしてしまった若いSPを見つめて、ロイは申し訳なさそうに言う。そうすれば、チェンは笑って答えた。
「いいえ、殿下。勉強になりました。例え多少護衛対象に不便や不自由を感じさせても側を離れてはいけないって、身を持って知りましたから」
「えっ?」
 そんな風にチェンに言われて、ロイは困ったようにハボックを見る。そんなロイにハボックはニヤリと笑って言った。
「これで、これからは簡単に抜け出せなくなったっスね」
「ええ、二度と撒かれないですよ」
「ええっ?」
 二人してそんな風に言われてロイは情けなく眉を下げる。そんなロイにハボックは笑って促した。
「さあ、もうお休みになった方がいいっス。チェン、後は頼む」
「はい、ボス」
「おやすみ、チェン」
「おやすみなさい、殿下」
 笑みを浮かべるチェンを残して、ハボックとロイはエレベーターに乗る。部屋に戻ってくると、ハボックは最初に風呂場へ行き湯船に湯を張り始めた。
「すぐ沸きますから、そうしたらゆっくり浸かって今日はもう休んでください。疲れたっしょ?」
「そうだな、なんだか凄く興奮して疲れたよ」
「明日は二限目からっスから少し寝坊しても大丈夫っスよ」
 ちょっと疲れた、だが満足そうな顔をしたロイにハボックは言う。飲み物は?と聞けば首を横に振られて、ハボックは部屋の扉に向かった。
「ハボック」
 部屋を出ていこうとするハボックをロイは呼び止める。振り返って見つめてくるハボックを見上げて、ロイは言った。
「今日はありがとう、ハボック。とても楽しかった」
「そうっスか。ならよかったです」
 素直な礼の言葉にハボックが笑みを浮かべて答える。そのまままた出ていこうとするハボックの腕を、ロイは手を伸ばして掴んだ。
「殿下?」
「あ、あのっ」
 不思議そうに見つめられてロイは僅かに顔を赤らめる。何だと視線で問われて、ロイは視線をうろうろとさまよわせたが、キュッと唇を噛むとハボックを見上げた。
「とても、楽しかった。だからその……また、連れていってくれないか?」
 目元を仄かに染めてそう言うロイにハボックは目を見開く。ロイをじっと見つめて、それからフッと目を細めたと思うとハボックが言った。
「いいっスよ。まだまだ案内してないところはあるし」
「本当かっ?」
 パッと顔を輝かせるロイにハボックが頷く。
「但し、勝手に抜け出したりしなければね」
「もうしない。それにもうチェンも騙されたりしないだろう?」
「そうっスね」
 ロイの言葉にハボックは苦笑して腕を掴んだままのロイの手に己のそれを重ねた。
「あっ」
 大きな手に包まれてロイが驚いたようにハボックを見る。ハボックは包んだ手で己の腕を掴むロイの手を外させると、そっと手を離した。
「おやすみなさい、殿下」
「あ、ああ……。おやすみ、ハボック」
 何事もないように笑って言うハボックにロイはもごもごと答える。そうすれば、ハボックはそれ以上なにも言わずに部屋を出ていった。閉じた扉の向こうで玄関脇の小部屋の扉が開閉する音を聞きながら、ロイはホッと息を吐き出した。


「本当に楽しかったな」
 チャプンと湯を揺らして、湯船に浸かったロイは呟く。毎日毎日代わり映えのない、鳥籠の中のような生活に飽いての行動だったが、その結果もたらされたのは思いがけなく楽しい時間だった。
「そう言えばこんな映画が昔あったような……」
 ロイは湯の中に口まで浸かって以前見た映画を思い出そうとする。うーん、と考えてパッと頭に浮かんだ、髪を高く結い上げドレスに身を包んだ王女の姿に、ロイはザバリと湯から体を起こしかけた。
「思い出した。親善旅行で諸国を訪問中の王女が、形ばかりのセレモニーの連続にうんざりして、抜け出した街で出会った新聞記者とあちこち見て回る話だ」
 今日の自分とハボックはどこかこの映画に似ていたと、ロイはそう思ってなんだかおかしくなる。クスクスと笑いながらとぷんと湯に肩まで浸かって、ロイは今日歩いて回った場所を思い返した。
「あの凱旋門の彫刻は見事だったな。美術館の絵も」
 目を細めてロイは呟く。そうすればベスパに乗って感じた風を思い出してロイは笑みを深めた。
「あんな風に叫ぶなんて」
 二人乗りしたベスパで、後ろから自分の腰にしがみついて素っ頓狂な声を上げていたハボックを思い出せば楽しくて仕方ない。真実の口での一幕が頭に浮かんで、ロイは俄に恥ずかしくなった。
「まったくもう」
 今日一日を思い返せば心の中に暖かいものが満ち溢れてくる。ハボックの空色の瞳が脳裏に浮かんで、ロイはドキリと胸が鳴るのを感じた。
「私は」
 ふと溢れかけた感情のまま口を開いたロイは、慌てて零れそうになった言葉を飲み込む。それから言葉の代わりにホウと深いため息を零した。
“仕事中っスから”
 そうハボックが言ったのを思い出してロイは唇を噛む。そんな風に言われるのが嫌で、ロイは食べきれない量のパニーニを買ってハボックに食べさせたのだ。
「仕事だなんて、言わないで欲しい……」
 そう呟いて、ロイはハッとして辺りを見回す。誰も聞いている者がいない筈の浴室で、ロイは顔を赤らめた。
「私は」
 その後に続く言葉が口をついて出てしまうのが怖くて、ロイはブクブクと湯の中に潜った。


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