深淵に偲ぶ恋  第十章


 カウンターでベスパの返却手続きをするハボックを待ちながら、ロイは人々が行き交う通りを見遣る。段々と暮れていく街並みを見ていれば不意に空腹を感じて、腹の虫がグゥと鳴った。丁度その時聞こえた足音に振り向くと、返却を済ませたハボックがロイを見下ろしていた。
「お待たせしました、殿下。それじゃあホテルに戻りましょう」
 そう言って促したものの歩きだそうとしないロイにハボックは首を傾げる。どうかしたのかと尋ねるハボックにロイは答えた。
「腹が減った」
 グゥグゥと鳴って主張する腹を押さえればハボックが言う。
「ホテルに戻ったらすぐ食事を取れるよう連絡を入れておきます」
 言ってコムのスイッチを入れようとしたハボックは、伸びてきたロイの手が押し留めるように腕に置かれたのを見て視線を上げる。問いかけるように見ればロイが言った。
「さっきの広場に屋台が出てただろう?あそこで食べたい」
「えっ?屋台っスか?」
「ああ、とても旨そうで気になってたんだ。あそこで食べよう、ハボック」
「しかし」
 渋るハボックの腕を掴んでロイは空色の瞳を覗き込むようにして言う。
「いいじゃないか。屋台で食事、今日の締めに相応しいだろう?」
 キラキラと期待に輝く黒曜石で見つめられてハボックは目を細めた。やれやれとため息をついてハボックは言う。
「仕方ないっスね。今日だけっスよ」
 全く今日はなにもかもがイレギュラーだと思いながらハボックが答えると、ロイがパッと顔を輝かせた。
「ありがとう、ハボック」
 そう言って笑うロイにハボックはドキリとする。だが、そんな事など全く表情には出さず、ハボックはロイを促して歩きだした。少し歩いて最初にロイを見つけた広場に戻ってくると、ロイが嬉しそうに広場を見回す。並ぶ屋台を覗きながら歩いて、ロイは言った。
「どうしよう、どれもこれも旨そうで迷ってしまうな」
「腹が減ってるからでしょう?」
 空腹は最高の調味料だと言ったのは誰だったろうと思いながらハボックが言う。うろうろと歩き回るばかりでなかなか決められないロイを見て、ハボックは言った。
「パニーニにしたらどうっスか?」
「パニーニ?」
 ハボックの言葉に屋台を覗き込んでいたロイが振り向く。ハボックはロイを見下ろして言った。
「まあ、言うなればサンドイッチみたいなもんですよ。旨いっスよ」
 と、ハボックは数軒先の屋台を指さす。買い求める客が並ぶその屋台に近づけば、様々な具材とパンが置いてあるのが見えた。
「好きな具材を選んで挟んで貰うんです」
「へぇ、それは旨そうだな」
 言われてロイは並んだ具材を見回す。どれもこれも旨そうに見えて、ロイは困ったようにハボックを見た。
「どれも旨そうに見えて決められん。お前のオススメははなんだ?」
「そっスね……」
 聞かれてハボックは煙草を指に挟んで考える。少し悩んでから答えた。
「このモツの煮込みなんて結構イケるっスよ。シンプルにサラミとチーズなんてのも旨いですし。あ、アンチョビとバターも旨いっス」
「アンチョビにバター?」
 そんなものが旨いのかと眉を顰めるロイにハボックが言う。
「旨いんですって、すげぇワインと合うの」
「そうなのか?じゃあワインも一緒に頼むか?」
「今は飲みませんよ、仕事中ですし」
 勧められて提案すれば、あっさりと断られてロイはがっかりした。そんなロイに気づいているのかいないのか、ハボックは懐から財布を取り出しながらロイに言う。
「で?なににしますか?」
「……そうだな、アンチョビバターは飲める時にとっておくことにして、そのモツの煮込みを貰おうか」
「モツの煮込みっスね」
 ハボックが繰り返して屋台の男に注文するのを聞いていたロイは、一人分しか注文していないことに気づいて尋ねた。
「お前は?食べないのか?腹が減ってるだろう?」
「仕事中っスから。空腹を我慢するのは慣れてますし」
 そんな答えが返ってきてロイは僅かに眉を寄せる。屋台の男が手早くモツの煮込みのパニーニを作るのを待つハボックの横顔をじっと見つめていたが、出来上がったパニーニを差し出す男にロイは言った。
「サラミとチーズのも作ってくれ。野菜を足して、あ、でもオリーブはパスだ」
「えっ?ちょっと?」
「サラミとチーズ、オリーブ抜きの野菜ね。毎度っ」
 ハボックが何か言う前に男はさっさと注文を受けて作り出してしまう。仕方なしに追加で金を払って出来上がったパニーニを受け取ると、近くのベンチに向かって歩きながらハボックが言った。
「こんなに食うんスか?」
「半分こしよう。両方味見出来るし、お前も腹が減ってるんだろう?」
「いや、でも」
「二つは食えん。半分食べてくれ」
 ロイはそう言って手にしたパニーニを半分に千切ってハボックに差し出す。目の前に突き出されたパニーニを見つめて、ハボックはやれやれとため息をついた。
「我儘な人っスね。判りましたよ、半分貰います」
 ハボックは言ってロイからモツ煮のパニーニを受け取る。自分が持ったサラミとチーズのパニーニを見て言った。
「これ、千切れないから、殿下先に食ってください」
「先にこっちを貰う。お前が先に半分食べろ」
 ロイは言ってベンチに腰を下ろすと半分のパニーニにかぶりつく。もぐもぐと口を動かしながら目を瞠った。
「旨い。すごく柔らかくて臭みもないし」
「でしょう?よかった、口にあって」
 ハボックはロイの言葉に笑みを浮かべる。それから困ったように言った。
「いいんスか?オレが先に食って。殿下が先に────」
「いいから先に食べろ。私は今こっちを味わってるんだ」
 旨そうにもぐもぐと口を動かしながら言うロイに、ハボックは一つ息を吐くと小さく“いただきます”と言ってパニーニを口にする。そんなハボックを見上げて、ロイは嬉しそうに笑った。


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