幻想女神  第七章


 あわせた唇をそっと離してロイはハボックの顔を見つめる。睫に宿る涙の滴を指先で拭い、頬を濡らす涙をハンカチで拭いてやるとハボックに尋ねた。
「それで?一体全体どうしてそんな姿になったんだ?」
 そう尋ねればようやくまともに口がきけるくらいまで落ち着いてきたハボックが考えるように首を傾げる。
「はっきりは判らねぇんスけど」
 そう前置きしてからハボックは夕べ部下達と一緒に飲んだ薔薇色の酒の事を話した。
「飲んだ人によって味が違うって。現にみんなは苦いだの辛いだの言って殆ど飲めなかったんスけど、オレにはもの凄く甘くて旨くて……」
「それで訳の判らん酒をガブガブ飲んだのか?」
「ガブガブって、グラスに一杯だけっスよ。それにあの時は酔ってたし……。大体酒飲んだら女になるなんて思います?普通。あの酒が原因かも判んねぇし」
 責める視線に耐えかねてハボックは必死に言い訳する。確かに酒を飲んで女になるとは想像できないにしても、そんな胡散臭い店で出された得体の知れない酒が体に害を及ぼすかもしれないという危険は考慮すべきだ。ロイがそう言えばハボックはシュンとなって俯いた。
「あのう……」
 その時、遠慮がちな声が聞こえて振り向けばマスターがトレイを持って立っている。話し込んでいた二人が自分に気づいてくれた事にホッとして笑うと、マスターはトレイの上の紅茶のカップを二人の前に置いた。
「よろしかったらどうぞ」
 そう言うマスターにロイは笑みを浮かべる。
「ありがとう、マスター。すまなかった、もう閉店なのは判っていたんだが咄嗟に行くところが思いつかなくて」
「いいえ、構いませんよ。そちらはさっき連れてこられたお嬢さんですね。トラブル続きのようだがマスタング大佐に助けて貰ったのは運が良かった。もう心配する事はないですよ」
 泣きながら店に連れてこられた女性を気遣ってそう言うマスターと、困ったようにそのマスターを見つめるハボックを見てロイはクスリと笑った。
「マスター、とても信じられないだろうとは思うが、この女性はハボックだよ」
「………はい?」
 その言葉にマスターはポカンとしてロイを見る。この反応は当然だろうと思いつつロイは繰り返した。
「彼女はハボックなんだ、マスター」
 そう言われてマスターは視線を女性に移す。そうすれば女性は困ったように笑って言った。
「こんばんは、マスター。ええと、ミーシャの尻尾はもう治った?」
 ミーシャと言うのはマスターが買っている猫の名前だ。店に遊びに来ていたミーシャが、その長い尻尾をドアに挟んで怪我をした時に一緒にいたのはハボックだった。
「え……ええッ?!じゃあ本当にハボックさんっ?!」
「はあ、本当にハボックっス」
 へへへ、と笑って頭を掻く仕草はハボックのものだ。マスターは目も口も大きく開いてハボックをまじまじと見つめた。
「いや、どこからどう見ても女性にしか見えないが……。ハボックさん、女の人だった、ってことはないよね?」
「オレは24年間ずっと男っスよ」
 あんなごつくてデカい女性がいたら気味悪いだろうと、ハボックは元々の自分の姿を思い浮かべて思い切り顔を顰める。「だよねぇ」と言いながらハボックを見つめているマスターにロイが言った。
「どうも妙なものを口にしたらしくてね、この阿呆は」
「阿呆は余計っスよ。ねぇ、マスター聞いたことないかな?ファントム・レディっていう薔薇色の酒。飲む人間によって味が変わるっていう酒なんだけど」
 ハボックはロイを睨むとマスターに向かって尋ねる。もしかしたらと期待するハボックに、だがマスターは首を振った。
「ファントム・レディねぇ……聞いたことないなぁ」
 申し訳なさそうにマスターが答える。がっかりとため息をつくハボックの肩を叩いてロイが言った。
「ここいら中のバーテンに聞いても判らなかったんだろう?マスターが知らなくても無理はないさ」
 ロイはそう言って紅茶を飲むと息を吐く。
「とりあえず今夜はもう帰ろう。いつまでもここにいたらマスターも迷惑だろうしな」
「あっ、そうっスね」
 言われてハボックは慌てて立ち上がる。その姿をしげしげと見つめてマスターはため息をついた。
「どうみても女性にしか見えないね。それもとびきりの美人だ」
「びーじーんー?だってオレ、元は男っスよ?美人な訳ねぇじゃん」
 思いっきり顔を歪めて言うハボックにマスターはロイの顔を見る。苦笑して肩を竦めるロイに頷き返して、マスターはハボックに言った。
「まあ、美人か美人でないかはおいといて、一人でふらふらしちゃダメだよ、ハボックさん。いつもとは違うんだから」
「あ、うん。判った、気をつけるよ」
 マスターの言葉にハボックは怖い目に遭ったことを思い出してコクコクと頷く。そんなハボックを見つめていたロイは立ち上がるとマスターに言った。
「今日は本当にすまなかった。また改めてお礼をするから」
「そんな必要ありませんよ、大佐。またうちに寄って下さればそれで十分です。何か私にお手伝いできることがあったら何でも言って下さい」
「ありがとう、マスター」
 にっこりと笑って言うマスターにロイも笑い返す。
「ほら、ハボック行くぞ」
「はい。マスター、本当にありがとう」
「どういたしまして。早く元に戻れるといいね」
 その言葉に頷いて笑うとハボックはロイと一緒に店を出た。

「さて、と」
 店の外に出るとロイは一つ息を吐く。これからの事を指示を仰ぐように見つめてくる空色の瞳を見返して言った。
「今夜はもう帰ろう」
「えっ、あの酒、探さないんスか?」
 てっきり夜通し探して歩くとばかり思っていたのにそんな事を言われてハボックは目を見開く。一秒でも早く元の姿に戻りたいのに、と半分泣きそうな顔で見つめればロイが苦笑した。
「今日はもう疲れただろう?散々な目にあって、今は気が高ぶっていて判らないかもしれんが、肉体的にも精神的にも相当こたえているはずだ。今夜はもう帰ってゆっくり休んで、明日から改めて調べた方がいい」
 そんな風に言われればハボックは言い返すことができない。しょんぼりと俯くハボックの金髪をクシャリとかき混ぜてロイは言った。
「そんな顔をするな。探さないと言っている訳じゃない。仕切り直そうと言ってるんだ。判るな?ハボック」
「……はい、大佐」
 優しく言い聞かせるような言葉にハボックが頷く。ロイは優しい笑みを浮かべると、ハボックの肩を抱いて歩き出した。
「………あ、あの、たいさっ?」
「なんだ?」
「どうして肩抱いてるんスかっ?」
 今まで一緒に歩いた時にはこんな風にされたことなどない。なんだか酷く恥ずかしくて顔を赤らめて尋ねればロイが目を瞠った。
「ああ、高さが丁度よかったんでつい、な」
 女性になってふた周りほど体が小さくなったハボックはロイが肩を抱いて歩くのに丁度よい。極々自然に肩に手を回してきたロイを、ハボックはジロリと睨んで言った。
「やっぱアンタって女たらしっスね。でも、オレみたいの抱いて歩いてたら趣味疑われるからやめた方がいいっスよ」
「お前な……」
 ハボックの言葉の前半と後半、違った意味でため息をついてロイは肩を落とす。少し頬を膨らませて睨んでくる空色の瞳を見やったロイは、悪戯心を刺激されてニヤリと笑うと抱いた肩をグイと引き寄せた。
「え…っ、……ッ、んんっ」
 不意に唇を塞がれてハボックは目を見開く。身を引こうとすれば更に深く唇を合わされて、もがくハボックの耳にヒュウヒュウと通りすがりにはやし立てる声が聞こえた。
「お熱いねっ、お二人さん!」
「美男美女でお似合いだぜ!」
「ありがとう」
 唇を離すとはやし立てる男達にニヤリと笑って言うロイにハボックは開いた口が塞がらない。ぱくぱくと声もなく震えるハボックの顔を覗き込んでロイが言った。
「たまにはこう言うのもいいものだな」
「……ッッ、馬鹿ッッ!!」
 ハボックは真っ赤になってロイのニヤケ顔を押しやるとドスドスと足音も荒く歩き出す。ニヤニヤとしながらその後を追ったロイは、曲がり角までくるとハボックの背に声をかけた。
「おい、そっちじゃないだろう?」
「え?オレのアパート、こっちっスよ」
 突然そんな事を言われ、さっきまでの怒りを忘れてハボックが怪訝そうに言う。ロイはため息をつくとハボックを睨んで言った。
「馬鹿者。そんなナリしたお前を一人にしておくなんて危なっかしくて出来るか。一緒に私の家に来い」
 そう言われてハボックが苦笑する。
「やだな、大丈夫っスよ。別に女の子になったからって食うもんが変わる訳じゃないし」
 なんとかなります、と言うハボックにロイは思い切り舌打ちした。
「お前が食われたらどうするんだ。今のお前みたいな危機意識のない奴をアパートに一人で置いといたら危なっかしくてたまらん」
「オレが食われる?」
「ついさっきの事をもう忘れたのかっ」
 きょとんとするハボックにロイは声を荒げる。言われてハボックは、ああ、と顔を歪めた。
「あれはよっぽど女に飢えてたんでしょ?誰でもよかったんスよ。ああ言うとこにでも行くんじゃなきゃ大丈夫ですって」
 のほほんとして言うハボックにロイは頭痛を覚える。男でいた時にも自分の魅力に気づいていない馬鹿者だと思っていたが、女性になってもそのままでは馬鹿者とばかり言ってはいられない。
「いいから!四の五の言わずに私の家に来いっ」
「えっ、ちょ……大佐っ?」
 ロイはハボックの腕を掴むと有無を言わさず自分の家に連れて帰った。


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