| 幻想女神 第六章 |
| 「お気をつけて」 と言うロイの言葉に笑って頷いてハボックは店を出る。背後で扉が閉まる音がするのを聞いて、くしゃりと顔を歪めた。 「頑張ったよな、オレ……」 何度もロイに縋りつきたいと思った。縋りついて自分はハボックだと告げたらロイはどうしただろう。 「でもそれでお前なんて知らないって言われたら立ち直れねぇし」 言っても判って貰えなかったらきっと胸が張り裂けてしまう。ハボックは緩く首を振ると視線を足下に落としたままとぼとぼと歩き出した。 「………」 女性がでて言ってしまった後、もう一度腰を下ろしたロイは冷めたコーヒーを啜りながら宙を見据える。そうすればたった今まで向かいに座っていた女性の姿が浮かんだ。肩まで届く蜂蜜色の髪、ほわりと笑う色の薄い唇。まろやかな曲線で形作られた体は女性らしい魅力に溢れていて、あんな寸の合わない男物の服でなく綺麗なドレスを身に纏えば、きっと彼女をより魅力的に見せることだろう。だが、ロイはそんな女性の美しさよりも何かもっと別の、もっと大事な事を見落としている気がして眉を顰める。女性の残像をじっと見つめていたロイは、睫に宿った涙の滴を指先で拭った時、驚いたように自分を見つめた女性の瞳を思い出した。 「……ッッ」 その途端、ロイはガタンと大きな音と共に椅子を蹴立てて立ち上がる。そうしてもの凄い勢いで店を飛び出すと視線を走らせた。 「どこだっ?」 きょろきょろと辺りを見回したロイは女性の姿を探して駆けるように歩き出した。 「どうしよう、誰かに聞きたいけどまたあんな目にあったらイヤだし……」 どうしてもあの手の情報を集めようと思うとあまりガラがいいとは言えない連中のたまり場に行かざるを得ない。だが、今の自分にとってそう言う場所がいかに危険かを思い知らされて、ハボックは深いため息をついた。 「やっぱ男がいい」 24年も男として生きてきたのだ。いきなり女性として生きろと言われてもどうすればいいのか皆目見当がつかない。なにより女性として生きていくのがとても恐ろしく感じてハボックはブルリと体を震わせた。 「たいさ……」 心細くて思わず名前が唇から零れ落ちる。 「っ、……ッッ」 ハボックは弱い自分を振り切るように首を振ると、唇を髪締め再び手がかりを探して夜の街を歩き出した。 「くそ、どこに行った?」 ロイはそう呟きながら足早に歩いていく。まだ酔客で通りは混みあっていたが、チラとでも視界を掠めれば女性を見落とさない自信はあった。さっきあんな恐ろしい目にあったばかりでもう家に戻ってしまったかもしれない。一瞬そんな考えも頭に浮かんだが、ロイは軽く首を振ってその考えを打ち消した。 「まだ近くにいるはずだ、まだ」 何か根拠があるわけでもなくそう呟く。だが、呟けばそれは確信となって、ロイは目に付いたバーやレストランを片端から覗いて回った。 「あんな事の後だ。裏通りには行っていないだろう」 そう目星をつけて店を覗いては求める姿がその店に現れなかったか、手近の従業員に尋ねてみる。そうすれば暫くして漸く求める答えが返ってきた。 「ああ、ぶかぶかの男物の服着た美人だろ?ついさっき店に来てバーテンに何か聞いてたけどすぐ出ていったぜ」 「本当か?どっちに向かって歩いていった?」 「駅の方かな。店出てすぐ左の方へ歩いていったよ」 「ありがとうっ」 ロイはウェイターに叫ぶように礼を言うと店を飛び出す。ウェイターが教えてくれた方向へ走り出せば印象的な後ろ姿が目に飛び込んできて、ロイは目を見開くと一直線にその背中に向かって走っていった。 今度は胡散臭い界隈には近づかず、一般の客が出入りするような店のバーテン達に酒のことを聞いて回る。ジーンズにジャンパーというなりのハボックに顔を顰める店もあったが、それでもハボックは懸命に尋ねて歩いた。 「ファントム・レディという名の酒を知らないか?」と。だが。 「悪いが聞いたことないな」 「知らないね、他の奴に聞いてくれ」 「仕事の邪魔だ。話だけなら昼間に来てくれよ」 返ってくるのは冷たい返事ばかりで、ハボックは泣き出したくなるのをこらえるのに必死だった。 「ちきしょ……。男に戻んなきゃ大佐んとこ戻れないじゃんっ。なんで誰も知らねぇんだよ……ッ」 そう呟くと滲む涙を手の甲でこする。そうして自分を助けてくれた時の優しい、だがどこまでも他人行儀でしかないロイの笑顔を思い出した。この姿でいる限りロイが以前のようなちょっと意地悪で、でもとても魅力的なあの笑顔を向けてくれることはないのだ。 「たいさ……っ」 胸の内で不安と恐怖が膨らんでくる。叫び出したくなるのを必死に押さえ込もうとするハボックの耳に背後から駆けてくる足音が聞こえた。 ロイはとぼとぼと歩いていく女性の背中に向かって一目散に走っていく。やっと自分の声が届くところまで近付いた時、考えるより早くロイの唇から一つの名前が零れ出た。 「ハボック!」 そう大声で呼べば女性の足がピタリと止まる。だが、振り向こうとはしない女性に向かってロイは言った。 「ハボック、だろう?」 そう言いながらロイは自分がなんて馬鹿げたことを言っているのだろうと思う。目の前に立つのはれっきとした女性で、ロイが知っているハボックは男性だ。ハボックが男性を装った女性ではないことはロイが一番よく知っている。それでもロイの細胞の全てが目の前にいるのがハボックだと告げていて、ロイはそれに逆らうことなくもう一度女性に向かって呼びかけた。 「ハボック」 そう呼べば立ち止まった女性がゆっくりと振り向く。信じられないとばかりに見開く空色に、ロイは笑みを浮かべた。 背後からもの凄い勢いで走ってきた足音が止まったと思うと自分に向かって投げかけられた言葉にハボックは足を止める。ロイにだけは判って欲しいと望むばかりにあらぬ幻聴を聞いているのかと疑ったハボックの耳にもう一度ロイの声が聞こえた。 「ハボック、だろう?」 確信をもって呼びかけてくる声にハボックは目を見開く。判って貰える筈がないと思うと同時に判って欲しいと思う気持ちがせめぎ合って、身動きが出来ないでいるハボックの耳にみたび呼び声が聞こえた。 「ハボック」 その声にゆっくりと振り向けば笑みを浮かべるロイが立っている。浅い呼吸を繰り返してハボックは囁くように言った。 「な……んで?」 そう尋ねるハボックにロイは自信満々に笑う。 「どんな姿になろうとお前のその瞳を私が見間違う筈がないからな」 自分を見つめてきた揺れる空色の瞳。誰よりも大切で誰よりも愛しい瞳。 「私の大切な空色だ」 「たいさ……っ」 そう言うロイにハボックが目を見開く。その瞳に涙が盛り上がるのを見てロイが手を伸ばした、その時。 「わあああんッ」 ハボックが突然大声で泣き出した。ギョッとするロイに縋りついて「わあわあ」とハボックは泣き続ける。行き交う人々がジロジロと二人を見て明らかにロイを責める視線を送ってくるのに、ロイは慌ててハボックに言った。 「馬鹿っ、そんな大声で泣く奴があるかっ」 「だってぇ」 一度泣き出したら止まらなくなってしまったのだろう、エグッエグッと妙な鳴き声を上げながら大泣きするハボックにロイは途方に暮れてしまう。とにかくこれ以上周囲の視線を集めていることに耐えられなくなったロイはハボックを抱き寄せるようにして歩き出した。さっき出てきたコーヒーショップはもうclosedの札がかかっていたが、それに構わず飛び込めば、後片づけをしていたマスターが目を丸くして二人を見る。 「すまん、マスター、もう一度奥、貸してくれ」 ロイはそう言うとハボックを急いで奥のブースに押し込んだ。さっきとは違いロイはハボックを椅子に腰掛けさせると自分も並んで腰を下ろす。エグエグと泣くハボックにロイは苛々と言った。 「泣くなっ、馬鹿者!みっともないだろうがッ!」 「さっきは無理もない、気にするなって言ったくせにぃ」 「相手がお前なら別だッ!」 そう言われてハボックは恨めしそうにロイを見る。手の甲で乱暴に目元をこするハボックにロイは慌ててハンカチを取り出した。 「こするんじゃない!紅くなってるだろうっ、もういい加減泣きやめッ」 「だって……」 ロイがそっとハンカチで目元を拭ってやればハボックがしゃくりあげながら言う。 「だって、誰もオレだって判ってくれなかったから……」 「私以外に誰かに会ったのか?」 ロイがハボックの頬に手を添えて尋ねればハボックが答えた。 「マイクと警備兵のダニエルと……あと、ブレダとファルマンとフュリー」 「ブレダ少尉もお前だと判らなかったのか?」 子供の頃からの付き合いである男にすら判らなかったのかと、僅かな驚きと優越感を感じながらロイが言えばハボックが頷く。 「男に戻んなきゃ誰も判ってくれないんだって……けど、聞いても聞いても何にも判んなくて……このまんまじゃ大佐にも判って貰えないままだって、どうしようって思ってたら大佐が……っ、気づいてくれた、から…ッ」 そう嗚咽の合間に言うハボックの瞳に新たな涙が盛り上がった。 「まさかお前が女性になってるなんて思いもしなかったからな」 ロイは苦笑混じりにそう言うとハボックをそっと抱き締める。それから零れる涙を指で拭ってやりながら言った。 「でも、どんな姿になってもお前のこの瞳は変わらない」 「たいさ……」 「私だけの瞳だ」 ロイはそう言って抱き締める腕に力を込めるとハボックの唇に己のそれを重ねた。 |
→ 第七章 |
| 第五章 ← |