幻想女神  第五章


「ヤッ!!やめろっっ!!」
 体を這い回る男達の手にゾッと身を震わせてハボックは叫ぶ。小隊の自分より頭ひとつ大きい部下でも引けを取らない自信がある自分が、こんなチンピラを払いのける事もできないのが信じられなかった。もがいてもがいても自由を得られないどころか、男達の手があらぬところに触れてくるのを止めることさえ出来ない。男が布越しに欲望を押しつけてくるに至って、ハボックは恐怖のあまり抵抗すら出来なくなってしまった。ボロボロと泣き出すハボックに男達が興奮して息を荒げる。ハアハアと息を弾ませた男にグイと脚を掴まれてハボックは悲鳴を上げた。もうダメだとギュッと目を閉じたハボックの耳に、怒りと侮蔑をはらんだ声が聞こえた。
「なにをしているッ!!」
 その声に男の一人がハボックから離れていく気配がする。なにやら言い合ったと思うと、路地裏に積まれた荷箱がガラガラと大きな音を立てて崩れた。
「何しやがんだ、貴様ァッ!!邪魔すんじゃねぇッ!!」
 その音にハボックを押さえつけていた男が立ち上がり、そう怒鳴って凄む。だが、それも束の間男達は後から来た誰かに叩きのめされると這々の体で逃げていった。
「大丈夫ですか?」
 漸く男達の汚らわしい手から逃れて、小さく身を縮めるハボックの耳に男の声がする。どこかで聞いたことのある安心感をもたらす声にハボックはビクリと震えた。そっと上着が掛けられたかと思うと、優しい声が聞こえた。
「怖かったでしょう。もう大丈夫ですから」
 その声にハボックは顔を上げて声の主を見る。自分を見つめるロイの黒い瞳と視線があって、ハボックは目を見開いてロイを見つめた。
(たいさ……)
 思わず口をついて出そうになった声をハボックは慌てて飲み込む。無理矢理視線を外すと、かけられた上着の襟元をギュッと握った。
「大丈夫です……」
 絞り出すようにそれだけを言う。食い入るようにハボックを見つめていたロイは、消え入りそうな声にハッとして笑顔を取り繕った。
「立てますか?」
「はい……あ、あの…っ」
 聞かれて立とうとしたハボックは乱されたボトムに気づいて顔を赤らめる。ロイは立ち上がるとさりげなくハボックに背を向けた。
「すみません……あの……」
 ハボックはその隙に急いで服を整えて立ち上がる。本能的な恐怖に竦みあがって震える体をギュッと抱き締めるようにして言った。
「ありがとうございました……」
 そう呟くように口にした途端、助かったのだという実感が押し寄せる。ヘナヘナと再び座り込んでしまったハボックにロイは慌てて手を伸ばした。
「どこか痛めたところが?」
 ロイはそう言って心配そうに覗き込んでくる。ハボックは顔を俯けて首を振った。その体が小刻みに震えていることに気づいてロイは僅かに目を瞠る。震える体にそっと腕を回すと抱えるようにして立ち上がらせた。
「また妙なのが来ると鬱陶しい。少し行ったところに私の友人のコーヒーショップがあるんです。とりあえずそこへ行きましょう。歩けますか?」
 そう聞かれてハボックは顔を俯けたまま頷く。安心させるように笑って見せるロイにハボックは顔を上げることも出来ずにいた。ロイは少しの間ハボックを見つめていたが、やがて何も言わずにハボックを支えて歩き出す。そうして人通りの多いメインの通りへ出ると指を指して言った。
「あそこです。もう少しですから」
 ロイはそう言ってゆっくりした足取りで支えた体を促す。ハボックはロイが指さす先を見ることもなく歩き出したが、ロイが言っているのが行きつけのコーヒーショップだと判っていた。
「マスター」
 カランと扉を開けるなりロイはカウンターの向こうに立つ髭の男に声をかける。男は金髪の女性を支えるようにして立っているロイの姿に僅かに目を瞠ったが、すぐさま奥のブースへと二人を案内した。
「何か温かい飲み物を」
「すぐお持ちします」
 ロイの言葉にマスターは頷いて離れていく。ロイはハボックを椅子に座らせると自分はその向かいに腰を下ろした。程なくしてマスターがホットレモネードとコーヒーをトレイに載せてやってくる。ハボックの前にレモネードを、ロイの前にコーヒーを置き、更に数枚の熱く絞ったタオルを置いた。
「他に必要なものがあれば言ってください」
「ありがとう、マスター」
 ロイが笑って頷けばマスターはカウンターへと戻っていく。ロイは俯くハボックの手を取るとレモネードのカップを握らせた。
「どうぞ。落ち着きますよ」
 恐ろしい目にあった自分を気遣い、優しくそう言うロイの言葉にハボックは唇を噛み締める。言葉はとても優しかったが、それはひどく他人行儀のものでしかなかった。
(大佐にもオレだって判んないんだ……)
 部下や警備兵に判らずとも、ブレダたちに判らずともロイなら自分だと気づいてくれるかもしれない。心のどこかでそう思っていたことに気づいたハボックは、ロイですらこの女性のなりをした自分がジャン・ハボックだとは判らないのだという現実を突きつけられて、その事実にぞっとした。
(どうしよう……オレ、どうしたら……っ)
 このまま女性として生きていくなど考えられない。だが、どうやって元に戻ればいいかも判らず八方塞がりの現実と、誰よりも大切に想っているロイにすら気づいて貰えないという絶望に、ハボックはカップを握り締めたままぼろぼろと涙を零した。


「…ッ」
 突然泣き出してしまった女性にロイはハッとして目を瞠る。それからああして力付くで強要されることがどれほど女性を傷つけるかという事に、改めて気づかされてロイは唇を噛み締めた。大事には至らなかったものの相当に恐ろしい思いをしたのだろう。カップを握り締めたまま俯いて肩を震わせる女性にロイはかける言葉を持たない。なにを言おうと全て上っ面でしかないと、ロイはなにも言わずにただカップを握る女性の手を己のそれで優しく包み込んでいた。暫くして少し落ち着いたのだろう、女性はテーブルに置かれたタオルを取ると顔を拭う。それから顔を上げてロイを見ると無理矢理に笑顔を作って言った。
「すみません、泣いたりして……」
「いいえ、無理もない。気にしないでください」
 ロイが笑ってそう言えば女性は少し安心したようにロイを見る。促すようにカップを押し出せば、女性はカップを持ち上げそっと口をつけた。伏せ目がちな瞳を覆う長い睫に涙の滴が残っていることに気づいて、ロイは思わず手を伸ばす。指先で拭えば驚いたように見開く空色の瞳にロイは慌てて手を引っ込めた。
「すみません、つい」
「……いいえ」
 女性はそう言って首を振ると吸いつけられていたようにロイを見つめていた視線を外して俯く。ロイは女性の瞳を食い入るように見つめた。
(似てる)
 不意に目の前の女性がつい先ほどまで必死に捜し求めていた姿と重なって、ロイは慌てて首を振る。それでも女性の瞳から視線を外すことが出来ずにじっと見つめたままロイは思った。
(アイツと同じ瞳を持った人間がいるなんて)
 誰よりも愛しい色と同じ色を持った人間がいるなど、俄かには信じられない。ロイがなにも言えずにじっと見つめていると、女性は視線をあげて小さな声で言った。
「助けてくださってありがとうございました」
 そう言って頭を下げる女性にロイは優しく笑う。
「いいえ、間に合ってよかった。落ち着かれたのでしたらお送りしましょう。今、部下の女性を呼びますから」
 私が送るより安心でしょう、とロイが言いながら立ち上がろうとすれば、女性の手が伸びてきてロイの軍服の袖を掴んだ。
「いいえっ、必要ないです。ひとりで帰れますっ」
「しかし」
「本当にもう大丈夫ですから。助けてくださってありがとうございました」
 女性は早口でそう言って立ち上がる。ロイは僅かに眉を寄せて言った。
「では、どなたか迎えに来て貰える人がいますか?ご家族か……恋人か」
 言いにくそうに付け足して言うロイを、女性は一瞬食い入るように見る。その空色の瞳がなにを言おうとしているのか、ロイがその瞳から読みとる前に女性は目を伏せて首を振った。
「いいえ、一人暮らしですから。でも大丈夫です」
 そう言う女性の姿をロイは改めて見つめる。彼女が来ているのは男もので、明らかに寸法があっていなかった。
(一緒に住んでる男の服……かと思ったが)
 揃いの服を着るならともかく自分の服を恋人に着せるなど趣味が悪い。そうすることで彼女が自分のものだと主張したいのかと思って、ロイは何故だか沸き上が る嫌悪感に眉間の皺を深めた。
(そんな男なら彼女がレイプされかかったと知ったら大変か?)
 ホークアイを呼んで送らせれば、ついた先で顔を合わせるであろうその男に説明しないわけにいかない。レイプされかかったのは彼女の罪ではないが、恋人に自分の服を着せたがるような独占欲の強い男では彼女を詰って酷い目に合わせる危険も考えられなくはなかった。
「本当に大丈夫ですか?」
 あまり気は進まなかったが一人で帰した方がいいのかもしれない。ロイがそう思って聞けば、女性はしっかりと頷いた。
「はい、本当にありがとうございました。改めてお礼に伺います、マスタング大佐」
 そう言われてロイは目を見開いて女性を見る。
「私のことが?」
 そう尋ねれば女性はロイをじっと見つめてそれからほわりと笑った。
「イーストシティで、いえ、アメストリスでロイ・マスタング大佐を知らない女性はいません」
 そう言った女性はロイから視線を外して俯く。キュッと唇を噛んだと思うと、再び顔を上げて言った。
「それじゃあ帰ります……私」
 笑って言ったその瞳が一瞬翳ったように見えたのは気のせいだったろうか。
「お気をつけて」
 ロイがそう言えば、女性はにっこりと笑って店を出ていった。


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