| 幻想女神 第三十六章 |
| 足を取られないよう注意しながら二人は湿地の中を歩いていく。ロイは泥濘るんだ地面の先を透かしみるようにして見ると言った。 「ハボック、向こうに生えている草を採ってくる。あれを採れば終わりだからお前はここで待っていなさい」 「一人で大丈夫っスか?」 「草を一本引っこ抜いてくるだけだ。一人で十分さ」 ロイはそう言ってゆっくりと湿地を抜けて歩いていく。数メートル歩いたロイが足を止めるのを見て、ハボックはどうしたのだろうとロイを呼んだ。 「大佐?どうかしたっスか?」 呼んでもすぐには答えずロイは自分の足下を見つめている。その様子に俄に心配になってハボックが口を開きかけた時、ロイがゆっくりと振り返って言った。 「ハボック、何か掴まれるものを投げてくれ。ロープが無理ならその辺の蔓でもいい。早く!」 ロイはそう言いながら肩に掛けていた薬草を入れるための袋をハボックの方へ放り投げる。戻ってこようと歩き出したロイの足が、足首まで潜り込んでいるのに気づいてハボックは目を見開いた。 「大佐っ?」 慌てて近づいてこようとするハボックをロイは怒鳴りつける。 「馬鹿ッ!来るんじゃないッ!早く掴まれるものを!!」 「はっ、はいッ!!」 ずぶずぶと湿地に足を潜り込ませながらロイは必死に戻ろうとしていたが、その身体が瞬く間に沈んでいこうとするのを見てハボックは真っ青になった。 「掴まれるものっ!なんか…なんかないかっ?!」 キョロキョロと辺りを見回して、ハボックは木に巻き付いた蔓を引っ掴む。ベリベリと強引に剥がしたそれがある程度の長さになるとポケットから取り出したナイフで切り取った。 「大佐ッ!」 慌てて振り向けばロイが胸まで浸かった状態で必死に前に進もうとしている姿が目に飛び込んでくる。一歩進む度ロイの身体が沈んでいくのを目の当たりにして、ハボックはゾッとした。 「大佐ッ!!」 ハボックは湿地の淵ギリギリまで近づくとロイに向かって蔓を投げる。ロイがその端を掴むのを確認して、ハボックは蔓を引いた。 「くそっ!」 もしも途中で蔓が切れたらと思うと気が気でない。それでも何とか切れずに手が届くところまでロイを引き寄せると、ロイの手を掴みグイと引っ張った。 「……重ッ!」 引き寄せるまでは何とかなったが、泥をまとったロイの身体は想像以上に重く、ハボックは思うように引っ張ることが出来ない。むしろハボック自身が引き込まれそうになっているのを見てロイが叫んだ。 「ハボック!このままじゃお前も落ちる。離せッ!!」 「嫌っス!!」 ハボックは叫び返すと蔓の端を手近の枝に引っかける。全体重を乗せるようにして引っかけた蔓の端を引けば、反対側の端を持ったロイの身体がずるりと沼地から出てきた。 「んーーッッ!!」 あと少し、とハボックは必死に蔓を引く。その時ブツッと嫌な音がしていきなり引いていた蔓が軽くなった。 「ッッ!!」 ギョッとしてロイを見れば湿地の淵に上半身を預けているのが目に入る。ハボックが手を伸ばせばロイがその手を掴み、足を泥から引き上げた。 「ハアッ!助かった…ッッ!!」 ハアハアと息を弾ませて、地面に座り込んだロイは後ろ手に手をついて空を見上げる。ハボックはくしゃくしゃと顔を歪めて、ロイに抱きついた。 「たいさァッ!!」 「っと!」 ギュウギュウと抱きついてくるハボックにロイは苦笑する。 「馬鹿、お前まで泥だらけになるぞ」 「だってっ!大佐、沈んじゃうかと思ったっ!!」 ボロボロと涙を流してしがみついてくるハボックの背をロイはポンポンと叩いた。正直自分でも最早これまでかと思ったこともあって、ロイはハボックが落ち着くまで好きにさせた。 「もういいか?ハボック」 暫くしてロイが聞けばハボックが顔を上げる。口をへの字に曲げた顔に泥がこびりついているのを見て、ロイはクスリと笑った。 「笑い事じゃねぇっス」 笑うロイを睨んでハボックが言う。その拗ねた子供のような顔に余計に押さえきれず、クスクスと笑うロイにハボックが大声を上げた。 「大佐っ!!オレ、心臓止まりそうだったんスからねッ!!」 人の気もしらないでと怒るハボックにロイが言う。 「怒るな、ホッとしたら気が弛んだんだよ」 クスクスと笑いながら言うロイに、ハボックもロイが生きた心地がしないでいたことに気づいた。角(つの)を引っ込めるともう一度ロイの身体を抱き締める。 「底なし沼なんスか?そこ……」 「本当に底がない沼なんてないがな。落ち葉や枯れ枝が散ってたからただの泥濘(ぬかるみ)くらいだと思ったんだ。もう少し注意すべきだった」 ロイはそう言ってため息をつくと立ち上がる。泥でごわごわになった身体を見下ろしてげんなりと肩を落とした。 「仕方ないか、命が助かっただけでもめっけものだ」 ロイは放り出した袋を拾い上げてハボックに渡す。長い枝を探して拾うとハボックに言った。 「あの草を取ってくるよ」 「オレも行くっス」 「今度はちゃんと足下に気をつけて行くから大丈夫だ」 「でもっ」 「待ってろ」 ロイは片目を瞑って言うとハボックをおいて歩き出す。今度はまっすぐに突っ切らず、湿地の周りをぐるりと回り込んで目当ての草を取って帰ってきた。 「大佐」 時々木の陰になって見えなくなるロイの姿を、それでも必死に目で追っていたハボックはロイが戻ってきたのを見てホッと息を吐く。そんなハボックにロイは頷いて言った。 「よし、帰るぞ。今夜中に片を付ける」 「……はいっ」 ニッと笑うロイにハボックはしっかりと頷き返した。 泥だらけで帰ってきたロイにホテルの従業員が目を丸くする。流石にそのまま部屋にというわけには行かず、申し訳なさそうに散水用の蛇口に繋いだホースを差し出して来るのに笑い返して、ロイは服のままジャバジャバと水を被った。 「これはこれでまたこのままと言うわけにはいかなそうだ」 泥は流れたもののぐっしょりと濡れた服を見下ろしてロイは言う。シャツと靴を脱ぎ捨て、ズボンの裾を絞って水気を切ると、そのままの格好で歩き出したロイにハボックが言った。 「大佐っ、換えのシャツ持ってきますよ!」 「いらん。どうせ部屋に戻ったらもう一度ちゃんとシャワーを浴びるんだ」 ロイはそう言って上半身裸のまま急ぎ足でホテルのロビーを横切り部屋に向かう。ロビーにいた若い女性達が頬を染めながらチラチラと見ているのに気づいて、ハボックは眉を顰めた。 「みんな見てんじゃん」 「構わんだろう?男なんだから」 まるで気にした様子のないロイにハボックはムッと唇を歪める。部屋に戻ってシャワーを浴びたロイは、髪を拭きながらハボックに言った。 「お前もシャワーを浴びて……何を怒ってるんだ?」 ムスーッとした顔をしているハボックをロイは不思議そうに見る。 「知りません。このフェロモン垂れ流し男!」 「はあっ?」 言われた意味が判らず目を丸くするロイをおいてハボックは入れ替わりに浴室へと入った。熱い湯を浴びれば少し気持ちも落ち着いてくる。 「まったくもう、大佐って妙なところで鈍いんだから」 ロイが聞いたらその言葉そのまま返してやると言いそうなことをブツブツと呟きながら、ハボックはシャワーを済ませると浴室から出た。 「大佐」 既に今日採ってきたばかりの薬草をテーブルいっぱいに広げているロイに声をかければ、ロイが振り向かずに答える。 「本当ならきちんと乾燥させたり、エキスを抽出して作るのがまともな作り方なんだろうがな。そんなことをしてると出来上がるのに半月かかってしまう」 そう言えば隣に立ったハボックが不安そうに見上げてくるのにロイは安心させるように笑った。 「心配するな、ちゃんと元に戻してやる」 「何か手伝えること、あるっスか?」 「手伝ってくれるのか?それなら」 ハボックの申し出をロイは断らずに指示を出す。張り詰めた表情で採取した樹皮を刻み、葉をすり潰すハボックを横目で見つめたロイは、ギュッと唇を噛み締め調合を進める手を早めた。日記に残された文字を拾い読み、自分が解析し探し出した構成式を元に何十種類もの薬草を合わせていく。必要最小限の言葉だけを交わして作業を進めれば、遂に綺麗な黄金色の液体が出来上がった。 「出来たぞ、ハボック」 ロイはそう言って出来た液体をグラスに注ぐ。それを手にハボックを見つめて言った。 「これを飲めば元に戻れる」 そう言って見つめてくる黒曜石の瞳にハボックの身体が震える。視線をロイの顔からグラスへと移して囁くように言った。 「これ飲めば元に……」 ゴクリと喉を鳴らしてハボックは黄金色の酒を見つめる。ロイを信じてはいたが、それでもこみ上げる不安にすぐにはグラスに手を伸ばせなかった。 「大佐……もし、もしっスよ?これ飲んでも元に戻らなかったら…」 「その時は責任とって嫁に貰ってやる」 「じゃあ、店にいた男みたいに蝦蟇になっちゃったら」 「その時はあんなちっぽけな水槽じゃなくて、最高級のアクアリウムを作って大事に大事に飼ってやる」 「じゃあ、もしっ」 「ハボック」 怯える心を誤魔化すように次々と「もし」を並べるハボックの言葉をロイが遮る。ハボックの手をギュッと握って言った。 「たとえこの先何があっても、私はお前の側にいると約束する。もっとも、この先にあるのは男に戻ったお前の未来だけだと思うがな」 そう言って笑うロイを見ていればハボックの心から怯えがゆっくりと消えていく。ハボックはロイを見上げてひとつ瞬くと言った。 「信じてるっス、大佐。でも、万一この先言えなかったら困るから言っておくっスね」 ハボックは微笑みを浮かべて続ける。 「いっぱい迷惑かけてごめんなさい。色々してくれてありがとうございます。オレ、この先どんな姿になっても大佐の事、愛───」 その時、言いかけたハボックの唇をロイのそれが塞いだ。僅かに唇を離してロイが言う。 「その先は男に戻ってから言え」 自信満々で言うロイに頷いて、ハボックはロイの手から受け取ったグラスに口を付ける。甘い香りのするそれをクーッと一気に飲み干したハボックは、急激にこみ上げる睡魔に目をこすった。 「たいさ……なんか、眠い…」 「睡眠効果のある薬草も混ぜたからな。いいから、そのまま眠ってしまえ。目が覚めたら何もかもよくなっているから」 「た…さ…」 ぼんやりと霞んだ空色の瞳がロイを見る。その瞳が光をなくして瞼に隠れるのと同時にハボックの手からグラスが滑り落ちた。 |
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