幻想女神  第三十三章


「ハボック少尉から?電話があったの?」
 執務室で書類のチェックをしていたホークアイにアンダーソンがハボックから電話があった事を伝えれば、ホークアイが形の良い眉を跳ね上げる。見つめてくる鳶色の瞳に緊張しながらアンダーソンは答えた。
「はい、アエルゴの国境近くのハータンという町からカバラに向かうと言っていました。中尉に休暇が延びてしまうがすまないと伝えてくれと」
 どういう反応が返ってくるか、内心ドキドキしながら言ってアンダーソンはホークアイを見つめる。ホークアイはロイの机に置かれたカレンダーを手にとって見つめた。
「休暇は一週間だと言ったのに」
 女性になってしまったハボックを元に戻す為と言ってロイがホークアイから貰った休暇は最長でも一週間だった。既に六日が過ぎている。今、アエルゴの近くにいるというなら明日から司令部に出るというのはどう考えても無理だろう。
「二人がどこに泊まるか、連絡先は聞いた?」
「いえ、言うだけ言って切れてしまったので」
 申し訳なさそうにアンダーソンが言う。と言うことはこちらから連絡を取る手段はないということだ。むしろそうなることを狙って早々に電話を切ってしまったのかもしれない。
「あの……申し訳ありませんでした。もっときちんと話を聞くなり、引き止めるなりすべきでした」
「貴方が悪いんじゃないわ、アンダーソン伍長。こうなることを見越して電話してきてるんでしょうから」
「はあ」
 口ではそう言うものの、やはり怒っているのだろうかとアンダーソンは思う。ハボックを元に戻す為とは言え、やはり公人としてのロイ・マスタングを補佐する身としてはそうそう甘い事も言っていられないのかもしれない。
(ま、隊長の代わりに聞いとくか)
 自分に非はなくてもここで小言を聞いておけば、後でハボック達が戻ってきたときに少しでも怒りの度合いが違ってくるかもしれない。そう思ったアンダーソンが背筋を伸ばして身構えればホークアイが言った。
「状況は判ったわ、ありがとう、アンダーソン伍長。もしまた何か連絡があったときは直接私の方へするように伝えてちょうだい」
「…え?…あ、アイ、マァム!」
 言ってにこやかに笑うホークアイに、一瞬ポカンとしたアンダーソンは慌てて答えて敬礼を返す。怒っていないのかとは流石に聞けずに、アンダーソンは司令室を後にした。どこか納得していない様子で出ていくアンダーソンの背を見送るとホークアイは一つため息をつく。
「これで元に戻せなかったなんて言ったら、承知しませんよ、大佐」
 ホークアイはそう呟くと急ぎの書類をもう一人の食えない上官に決済を頼むべく、仕分け作業を続けるのだった。

「ハアックションッッ!!」
「風邪っスか?大佐、大丈夫?」
 ブルリと体を震わせて大きなくしゃみをするロイの顔を、ハボックが心配そうに覗き込む。ロイはズズッと鼻を啜ると軽く手を振って言った。
「いや、ちょっとムズムズしただけだ、大丈夫」
 にっこりと笑って言うロイにハボックは安心したように馬車の荷台に座り直す。ロイはハボックに判らない程度に眉を寄せると胸の中で呟いた。
(中尉だな。きっと戻せなかったら赦さないとか言ってるに違いない)
 ゾクリと背筋を走った悪寒をそう理由づければ、有能な副官の顔が脳裏に浮かぶ。ロイは眉間の皺を更に深めて思った。
(言われんでもちゃんと私が戻して見せるさ)
 浮かんだホークアイに向かってそう言えば、「当然です」と声が聞こえるような気がする。げんなりとして思わずため息をつけば、それを聞きとめたハボックが言った。
「疲れたっスか?大佐。ここ来るまでもずっと根詰めてたし、列車でもあんまり休めなかったんじゃないっスか?」
 心配そうに言うハボックの空色の瞳をロイは見つめる。今だって不安で仕方ないだろうに、ロイの体調を気遣ってそう言うハボックにロイは笑みを浮かべた。
「大丈夫、疲れてなんかいないさ」
「でも」
「中尉の声が聞こえたんだよ」
 言えばキョトンとハボックが目を丸くする。
「中尉の声が?なんて?」
 そう尋ねてくるハボックに、ロイは背筋を伸ばすとホークアイの口調を真似て言った。
「“大佐、勝手に休暇を延ばしたからには、きちんと男性に戻ったハボック少尉を連れて戻ってこないと承知しませんから”」
「プッ……あはは、大佐、上手いっス」
 ホークアイの口真似を聞いてハボックが吹き出す。クスクスとひとしきり笑って、ハボックはロイの肩に金色の頭を預けて言った。
「中尉にはオレが叱られるっスから。大佐の分までちゃんと」
「ハボック」
「だって、元々オレが不注意だったんだし」
 酔っていたとはいえあの時あの酒を飲みさえしなければこんな事にはならなかった。もしこのまま元の姿に戻れないとしても、結局は自業自得なのだ。
「ここでも戻る方法が判んなかったら、もういいっスから」
「戻してやると言ったろう?私を信じろ」
 そう言ってグイと引き寄せる強い腕に。
「………はい」
 ハボックは小さく頷いてそっと目を閉じた。

「この道をずっと行けばカバラだから」
「どうもありがとう。少ないけど取っておいてくれ」
 馬車を降りた二人に農夫が分かれ道の一方を指して言う。ロイが幾ばくかの金を差し出せば、農夫は顔を顰めて首を振った。
「あー、そんなもんいらねぇよ。どうせついでだったんだし。そんなことより彼女大事にしてやんな、疲れただろうから」
 そう言って農夫はハボックを見る。座り心地悪かったろ、とすまなそうに言う農夫にハボックは慌てて首を振った。
「そんな事ないっス!無理言って乗せて貰ってありがとうございましたッ!」
 ハボックはそう言って深々と頭を下げる。それに笑って答えると農夫は言った。
「気をつけて行きなよ、じゃあな」
 それだけ言って農夫は馬に軽く鞭を入れる。ゆっくりと去っていく馬車を二人は暫く見送っていたが、やがてロイは馬車に向かって手を振るハボックに言った。
「よし、行こうか」
「あ、はいっ」
 頷いて歩き出すハボックの手をロイは鞄を持っていない方の手で握る。
「たいさ」
 顔を赤らめて睨んでくるハボックにロイはニヤリと笑って言った。
「いいじゃないか、誰が見てるわけじゃなし」
 でも、と言って引き抜こうとする手をロイはギュッと握り締める。
「ハボック」
 そう言って極上の笑みを浮かべてみせればハボックがカアッと紅くなった。困りきったハボックがうろうろと視線をさまよわせている間に、ロイは握った手の指を自分のそれと絡める。そうすれば紅い顔のハボックが横目で睨み上げてきた。
「アンタが誑しなの、すごく判った気がするっス」
「なんだ、それは。失礼な奴だな。好きな相手と手を繋いで歩いて何が悪いんだ?」
 そんな風に聞かれては答えようがない。ハボックは黙り込んだまま俯いて歩いていたが、ロイが呼ぶ声に顔を上げた。
「ハボック、花が咲いてる」
 そう言いながらロイが指さす方を見ればピンク色の小さな花が枝いっぱいにこんもりと咲いている。
「わ……綺麗っスね」
「あれはアーモンドだな」
「アーモンド?って食う奴?」
「そう、食う奴」
 目をまん丸にして見上げてくる表情が子供のようだ。ロイはすい寄せられるように視線を花に戻すハボックを見つめながら言った。
「アーモンドにはスイート種とビター種がある。食用になるのはスイート種だ。ビタミンEや豊富な食物繊維、ポリフェノールを多く含んでいる。老化防止や咳止めなんかに使われてたんだ。ビター種は青酸を含んでいるから処理なしに大量に接種すると有毒だ」
「えっ、そうなんスか?」
「そう。だからいくら腹が空いてるからって生ってる実を勝手にとって食うなよ」
「食いませんよ。だいたい生じゃ食えないっしょ」
 そんな意地汚くねぇし、と唇を尖らせるハボックにロイはクスリと笑うと繋いだ手をグイと引っ張る。チュッと突き出た唇にキスすれば、ハボックが跳び退るようにして離れた。
「たいさっ」
「はは、薬用成分講座を聞かせてやったろう。受講料だ」
「勝手にしゃべったくせに」
 そう言って睨んでくるハボックにロイが言う。
「宿を取ったらすぐ薬草採集に出るからな」
 不意に真剣な表情を浮かべるロイにハボックは一瞬目を瞠ったが、すぐにしっかりと頷いた。


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