幻想女神  第三十一章


「もう、帰るの?マイク」
「や、すっかり長居しちゃいましたから。いい加減帰らないと“何してたんだ”って怒られちまいます」
「いいじゃん、もう少しだけ」
 立ち上がるアンダーソンの袖をハボックが引く。それを見ていたロイが呆れたように口を挟んだ。
「ハボック、いい加減にしろ。伍長は勤務時間中だ」
「大佐」
 そう言われてハボックが掴んでいた手を離す。パタリと力なく落ちた手をアンダーソンは取るとギュッと握って言った。
「隊長が戻られるまで、俺たち頑張りますから。早くまた俺たちのことどやしてやって下さい。待ってます、待ってます、隊長!」
「マイク」
 不安そうに見上げてくる空色にニカッと笑ってアンダーソンはロイに視線を向ける。
「長いことお邪魔してしまって申し訳ありませんでした。隊長を早く元に戻してあげてください、マスタング大佐」
「言われんでもそうするさ。留守の間、よろしく頼むぞ」
「イエッサー!」
 アンダーソンはピシッと敬礼すると帰っていった。

 一人いなくなって急に静かになった気がする。ぼんやりと立っているハボックにロイは眉を寄せて名を呼んだ。
「ハボック」
 ロイの声に弾かれたように顔を上げてハボックはロイを見る。一瞬見開いたままロイを見つめた瞳が緩く解けてハボックは言った。
「食器、片づけてくるっスね」
 そう言ってハボックはテーブルの上のカップや皿をトレイに載せてキッチンへと運んでいく。その背を見つめていたロイはソファーに腰を下ろすと革表紙の日記を開いた。
 ずっと読み進めているうち判ってきたことがいくつかあった。この日記を書いているのは錬金術師だと言うこと。彼には結婚を控えた恋人がいること。結婚前に彼が錬金術師になる事を誓った思い出の地へ彼女を連れていきたいと思っていること。その場所は古の神々に守られた土地で、そこに住む住人たちもあまり入りたがらない場所であること。そんな理由から渋っていた彼女を何とか説得して出かけることになったこと、等々。
「まったく……恋愛日記だな、まるで」
 いくらハボックの為とはいえ他人の色恋沙汰を延々読まされるのはたまらない。正直こんなところはすっ飛ばして読みたいと思ったが、どこに大事な事が書かれているか判らない状況ではそうすることも出来なかった。
 うんざりとして顔を顰めた時、人の気配がしてロイは日記から顔を上げる。自分を見下ろしてくる空色の瞳と視線があったと思った瞬間、フイと顔を逸らしてリビングを出ていこうとするハボックの腕を、ロイは咄嗟に伸ばした手で掴んでいた。
「大佐」
「ここにいろ、ハボック」
「でも、気が散るっしょ?」
「そう思うならはなから書斎に行ってる」
 ロイはそう言うとハボックの手を引いて一緒にソファーに腰を下ろす。元気なく俯く頬にキスを落として、片手でハボックの手を握ったまま、片手で日記を持って読んでいればハボックが小さな声で言った。
「何か判ったっスか?」
「今のところはこれを書いたのが恋人にメロメロな錬金術師ってことだけだ」
「なんスか、それ」
 うんざりしたように言うロイにハボックがクスリと笑う。ロイはハボックの金髪に口づけて言った。
「私の日記を未来の誰かが読んだらなんと言うかな」
「自意識過剰の女誑しって言うんじゃないっスか?」
「………お前の事が書いてあるとか思わんのか?」
 そう言えば、俯いていたハボックがロイを見る。
「なんか書いたんスか?」
「気になるか?」
「変なこと書いてないでしょうねっ?」
「変なこと?たとえば?」
 逆に問い返せばハボックがウッと口を噤む。顔を赤らめて視線をさまよわせるハボックに、ニヤニヤと笑ってロイが言った。
「そうだな、例えば普段は素っ気ないお前がベッドに入ると途端に大胆になるとか」
「なっ……、オレがいつ大胆になったんスかッ!」
「もっともっと、と言って咥え込んだ私を離そうとしないとか」
「たいさッッ!!」
 ロイの言葉に真っ赤になったハボックが拳を振り上げる。それを笑って受け止めてハボックの体を抱き込んだままソファーに倒れたロイは、ハボックを見上げて言った。
「お前は元気な方がいい。私を信じていつも通りにしていればいいんだ」
「たいさ……」
 優しく笑って言う黒い瞳にハボックが目を見開く。くしゃりと顔を歪めるとロイの首にギュッと縋りついた。
「はい、たいさ…」
「判ればいい」
 抱きついてくるハボックの金色の頭をロイは愛しげに撫でる。そうして暫く抱き合ったままソファーに横たわっていた二人だったが、やがてハボックがポツリと言った。
「最近シてないっスね、オレがこうなる前はしょっちゅうシてたのに」
 そう言ってハボックは体を起こすとロイの顔を真上から覗き込む。
「……どっかでヌイてるんスか?」
「お前なぁッ」
「だって、アンタが何日もシないでいるなんて信じらんねぇ」
「人を色情狂みたいに……」
 ロイは片手で顔を覆ってげんなりと呟いた。疑わしげに見下ろしてくるハボックを見上げて言った。
「私を狂わせるのはお前だけだ、ハボック」
 そう言ってもどこか不満げなハボックの頬を撫でてロイはからかうように言う。
「なんだ、シたいのか?」
「そう言う訳じゃないっスけど……」
 呟いて唇を噛むハボックの体を引き寄せて抱き締めるとロイは言った。
「事が全部済んでお前が元に戻るまではと自分を戒めているつもりなんだがな」
 ロイはそう言って抱き締めたハボックの顔を見つめる。
「シたいと思えば必死になると思わないか?」
「あはは、アンタならそうかもっ」
 冗談めかして言えばハボックが吹き出した。
「……大好き、大佐」
 ひとしきり笑った後泣きそうな声で呟くハボックを引き寄せて、ロイは優しく口づけた。

 ロイが日記を読み進める隣に並んで、雑誌を読んだり銃の手入れをしたりしていたハボックだったが、夕方が近くなると食事の支度をしてくると言って立ち上がる。
「手伝おうか」
 と言えば
「何かあれば声かけるっスから」
 と言うハボックに頷いて、ロイはそのまま日記を広げていた。まるで婚前旅行のような甘ったるい内容にいい加減辟易しながらロイがページをめくると。
「……なんだ?」
 突然文字が乱れ、自分に向けた罵詈雑言がページを埋め尽くしている。激しい後悔と恋人に対する罪悪感と己の無力を嘆く気持ちと。書き殴った文字で紙面は汚れ、ところどころ涙が滲んだような跡がある。ページが破れているところすらあって、何があったのか数ページの間は流石のロイにも何が何やら判らなかった。だが、日記の持ち主である錬金術師の男が落ち着きを取り戻していくに連れ、ロイにも彼らの身に何が起きたのか、漸く判ってくる。そうして判るにつれて、ロイの眉間の皺も深くなっていったのだった。

「大佐、食事の用意が───」
 食事の支度を整えて、ハボックはロイを呼ぼうとかけた声を途中で飲み込む。なんだか声をかけるのもはばかられる雰囲気に、どうしたものかとハボックが困っていると、不意に顔を上げたロイがハボックを見て言った。
「なんだ?」
「あ、あの……食事の用意が出来たんスけど……」
 言いにくそうに言うハボックにロイは苦笑して立ち上がる。心配そうな顔で見上げてくるハボックの頭をくしゃりとかき混ぜてロイは言った。
「手伝わなくて悪かったな」
「それは別に構わないんスけど……なんか問題あったんスか?」
 ロイの眉間の皺の理由を悪い事と取ってハボックが不安そうに聞く。ロイは一瞬目を見開いたがすぐに笑って言った。
「そうじゃない。食事をしながら話をしよう」
 ロイはそう言ってハボックを促して席に着くとすぐさま旨そうに湯気を上げる肉を口に運ぶ。対照的に座ったきりフォークも手に取らないハボックに向かって言った。
「ファントム・レディは日記を書いた錬金術師が恋人の為に調合した水薬だ」
「水薬?酒じゃなくて?」
 ロイの言葉にハボックがキョトンとする。ロイは頷きながら口に運んだ肉をもぐもぐと噛んで飲み込んでから言った。
「リキュールというのはそもそも昔の錬金術師達がスピリッツに薬草の成分を溶かし込んで作った薬用成分を持つ水薬だ。だから沈痛や解毒作用のあるものも少なくない。ファントム・レディは風土病に侵された恋人を救うために錬金術師が作ったんだ」
「風土病って?あの日記を書いた錬金術師の恋人が病気になったんスか?」
「掻い摘んで話せばこう言うことだ」
 ロイはそう前置きして日記から判った事を要約する。旅先で土地の者すら入ろうとしない場所へ足を踏み入れた錬金術師達を待っていたのは、古くからその土地に蔓延る奇妙な風土病だった。
「その病は感染したものの風貌を変えていくんだ。肌の色艶がなくなり髪が抜け落ち骨格が歪み肉が溶け落ちていく。美しかった恋人の姿がゆっくりと変貌していくのを見るのは、さぞ恐ろしかっただろうな。錬金術師にとっても、病を患った恋人自身にとっても」
「薬はなかったんスか?昔からある病気だったんでしょ?」
 驚きに目を見開いてハボックは尋ねる。ロイは首を振って否定すると答えた。
「なかった。だから土地の者もその場所に近寄らなかった。そこは古の神々が住む場所だから、むやみに入れば怒りを買うと言ってな。だが、錬金術師は嫌がる恋人を連れてそこへ行った。自分は一度入ったが何事もなく帰ってこられた。そればかりか錬金術師になる為の教示を神々から得たとからと。病気にならなかったのは偶々だし、神から教示を得たなんて傲慢にもほどがある」
 ロイは吐き捨てるように言って続ける。
「理由はともあれ、病にかかった恋人を助けるため錬金術師はファントム・レディを作った。成分を分析したら随分色んな薬草が使われていたよ。幾つか知らないものはその土地固有の薬草だろう」
「その恋人は治ったんスか?」
「判らない。日記は途中で終わっていた。治ったのか、薬が出来る前に死んでしまったのか。いずれにせよ醜く変貌した恋人の姿を治す為のファントム・レディだけが後の世に残った」
 そこまで言ってロイはハボックをじっと見つめる。真っ直ぐに見返してくる空色の瞳を見て言った。
「錬金術師達が行ったという場所に行く。ファントム・レディの効用を消す為にその土地固有の薬草が必要だ」
 そう言うロイの言葉に、ハボックは大きく目を見開いた。


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