幻想女神  第三十章


 スタスタと司令部の廊下を歩いていくハボックをアンダーソンは急いで追いかける。隣に並ぶとジロジロと興味本位の視線を向けてくる男どもを睨みつけた。足早に歩くハボックの歩く早さを抑えるようにハボックの腕を引いて、アンダーソンは言った。
「隊長、マスタング大佐は隊長がここに来てること知ってるんですか?部隊のこと話しに来たって」
 そう聞かれたハボックの体がピクリと震える。アンダーソンの方を見ずにハボックは答えた。
「大佐にはマイクに昨日のお礼言いに行ってくるって言ってきた」
「部隊のことは言ってないんですね?」
 もしハボックがそういう話をしに行くのだと知っていたらロイはきっとハボックを行かせなかったに違いない。アンダーソンはハボックの腕を引く力を強めて立ち止まらせるとハボックの顔を覗き込むようにして言った。
「マスタング大佐は必ず隊長のこと、元に戻してくれるんでしょう?今まで一度だって嘘を言ったことがない人だって、隊長が一番よく知ってるじゃないですか」
「でも…ッ、いくら大佐だって無理なことあるじゃないか。オレだって大佐のこと信じたい、でも、あの男にも逃げられて店もなくなって……残ったのはあの酒と訳の判らない日記だけ。そんなでいくら大佐だってどうやって元に戻る方法見つけるんだよッ!!」
 段々と声高になっていくハボックにアンダーソンは目を瞠る。これまでどんなに不可能に近い状況でも笑って立ち向かっていったハボックの、常にない状態を目の当たりにして、アンダーソンはどれほどハボックが追いつめられているのか漸く気づいた。綺麗な空色の瞳を大きく見開いて見上げてくるハボックの幼い表情に、アンダーソンは胸が締め付けられるような気がする。ハボックの手をそっと握って言った。
「まだ見つけられないって決まった訳じゃない。マスタング大佐を信じましょうや、隊長。誰より大事な誰より信頼できる隊長の大佐じゃないですか」
 そう言って笑えばハボックが顔を歪める。突然ぼろぼろと泣き出したかと思うと胸にしがみついてくるハボックに、アンダーソンはギョッとして目を見開いた。
「ちょ……っ、タイチョウッ?」
「マイクぅッ…!」
 ぎゅうぎゅうと胸を押しつけるようにして抱きついてくる抱きつき方は心臓に悪い。アンダーソンが顔をひきつらせて凍り付いていると、背後から驚いたような声が聞こえた。
「少尉?!どうしてここに?大佐はどうしたの?」
 その声に振り向けばロイの副官であるホークアイが立っている。困ったような視線を向けてくるアンダーソンに無言で尋ねれば、アンダーソンが言った。
「部隊のことでみんなに話があるっていうんです。でも、マスタング大佐はご存じないみたいで」
 そう聞いてホークアイはアンダーソンにしがみつくハボックの肩をそっと引いた。
「ジャクリーン、一人でこんなところに来るなんてダメじゃないの」
「……中尉?」
「あなたにこんな顔させるなんて」
 ホークアイはそう言ってピクリとこめかみを引きつらせる。
「何をやっているのかしら、大佐は」
 温度も音程も低い声にハボックはギョッとしてホークアイを見た。慌てて手の甲で涙を拭うとホークアイの腕を掴んで言う。
「大佐は一生懸命調べてくれてるっス。絶対オレを元に戻してくれるって!」
 そう言ってロイをかばうハボックを見てホークアイは微笑んだ。
「それが判っているなら今部隊をどうこうするという話をすべきじゃないわ、少尉」
 言われてハボックは涙の残る瞳を大きく見開く。ホークアイはキュッと唇を噛んで俯くハボックの目元に残る涙を白い指先で拭って言った。
「帰った方がいいわ、少尉。アンダーソン伍長、少尉を家まで送ってあげて」
「アイ・マァム!」
 ホークアイの言葉に敬礼を返すアンダーソンにハボックは首を振る。
「平気、オレなら一人で帰れるから」
「中尉のご命令ですし、なにより俺が送っていきたいんで」
 そう言って笑うアンダーソンとホークアイをハボックは見つめたが、それ以上は何も言わずに小さく頷いた。
「では隊長を家までお送りします」
「お願いね、伍長」
 ホークアイは答えてハボックに優しい微笑みを向ける。アンダーソンに背中を押されて促され、ハボックは何も言わずに廊下を戻っていった。

「なんだ、この成分は」
 ロイは手に入れた酒の成分分析の結果を手にそう呟く。ハボックと別れた後、急いで家に戻ってきたロイは、普段錬金術の研究に使っている地下の実験室にこもってファントム・レディの成分を調べていた。解毒作用のあるハーブや殺菌や防腐作用を持つハーブ数種類はロイも知っているものだ。だが数十種類も溶かし込んである薬草のうち、何種類かはロイが見たことも聞いたこともないものだった。
「これは酒として楽しむというより水薬の類のようだな」
 そもそもリキュールの起源は、昔の錬金術師達がスピリッツに薬草の成分を溶かし込んで作った薬用成分を持つ水薬だ。ファントム・レディが何かしらの薬用効果を狙って作られたものであるとしたら、飲んだ者の姿を変えるというあの奇妙な効果も判らないではなかった。
 ロイは成分分析の結果を手に実験室を出る。あの日記がファントム・レディを作った錬金術師のものであるなら、何の効果を求めて作ったか日記に記してあるはずだ。それが判れば使ってある薬草を探し出す手がかりになるだろう。ロイは急いでリビングに戻ると、夕べ読んだままに置いてあった日記を手に取り読み始めたのだった。

「マイク、ここまででいいよ。家、すぐそこだし」
 あと五分も歩けば家だというところまで来て、ハボックは足を止める。今は自分より頭一つ以上大きな部下を見上げて言えば、アンダーソンが首を振って答えた。
「家までお送りします。中尉からのご命令でもありますし」
「ここで帰ったって家まで送ったのと大して変わらないよ。マイク、仕事だってあるんだし」
 だから、と言うハボックをアンダーソンはじっと見つめる。男であった時の面影と言えばその空色の瞳にしか見つけられなくて、アンダーソンは胸の痛みに唇を噛んだ。
「俺が送っていったらご迷惑ですか?」
「そんなことっ」
 アンダーソンの言葉にハボックは慌てて首を振る。それから視線を落として言った。
「迷惑かけてんのはオレの方だし……ホントごめん、マイク」
「謝らないでください、隊長。隊長は何も悪くないし、迷惑だなんて思ってないですから」
 そう言えば空色の瞳が揺れる。内心で自分の無力を責めながらアンダーソンはニヤリと笑って言った。
「こんな美人の隊長と一緒に歩ける役得なんて滅多にないですからね。過ぎちまえば笑い話、いい思い出ですよ、きっと」
「マイク…」
「それに隊長が泣き虫だって意外なことが判りましたし」
「もうっ」
 からかうように言えば、ハボックが顔を赤らめてアンダーソンの胸を叩く。アンダーソンは「ははは」と笑うとハボックの背に手を回して言った。
「さ、行きましょう。あんまり遅くなるとマスタング大佐が心配するでしょう」
「うん」
 アンダーソンの言葉に頷くと、ハボックは促されるまま家への道を歩き始めた。

 ガチャリと扉の開く音に続いて「ただいま」という声が聞こえて、ロイは読んでいた日記から顔を上げる。話し声がしたと思うとハボックに続いてリビングに入ってきたアンダーソンの姿に、ロイは目を瞠った。
「アンダーソン伍長」
「ホークアイ中尉のご命令により隊長を送って参りました」
 ロイはピッと敬礼して言うアンダーソンを見つめ、ハボックを見る。少し困ったように笑うとハボックはアンダーソンを見上げて言った。
「コーヒー淹れるから飲んでいって、マイク」
「いえ、俺はすぐ戻りますから」
「コーヒー一杯くらいいいだろ?ね、大佐」
「ああ、そうしたまえ、伍長」
 ハボックに聞かれてロイも言う。流石にそれ以上固辞するのははばかられて、アンダーソンは促されるままソファーに腰を下ろした。
「待ってて、すぐ用意するから」
 ハボックはそう言ってキッチンへと姿を消す。それを見送ったアンダーソンは尋ねようにロイを見た。
「酒の成分分析は済んだがよく判らない成分が幾つかあってね、今、日記にそのヒントがないか読んでいるところだ」
「そうですか」
「ハボックは?本当に貴官に挨拶だけして帰ってきたのか?」
 そう尋ねられてマイクはハッとする。真っ直ぐに見つめてくる黒い瞳を見返して言った。
「小隊の連中に今後の事を話すと」
「話したのか?!」
 ギョッとしたように言うロイにアンダーソンは首を振って答える。
「詰め所に行く前にホークアイ中尉と偶然会いまして、中尉が止めて下さいました」
「そうか」
 ホッと息を吐くロイをアンダーソンはじっと見つめた。少し迷ってそれでもロイに向かって言った。
「こんなに追いつめられている隊長は初めて見ました。もしこのまま元に戻れないなんて事になったら」
「判っている」
 アンダーソンの言葉を乱暴に遮ってロイが言う。
「判っている。必ず私がハボックを元に戻す」
 そう言うロイにアンダーソンは黙って頭を下げた。


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