| 幻想女神 第二十八章 |
| 「おいッ!」 ロイは短く怒鳴ると雑多に積み上げられた物の間を見て回る。だが、どこにも男の姿がないと判ると思い切り舌打ちした。 「くそ…ッ」 せっかく店を突き止めたのに逃がしてしまった。“知らない”とは言っていたが、締め上げれば何か判ったかもしれないのに。ロイは自分の腑甲斐無さに怒りに震えたため息を零す。ふと部屋の真ん中に目をやれば、ファントム・レディのボトルと古い本が置いてあることに気づいて、ロイはゆっくりと歩み寄っていった。 「これが例の酒か」 一瞬迷って、それでも手を伸ばしてボトルを取る。古いラベルには今ではあまり使われない書体で“ファントム・レディ”と記してあった。ロイはボトルの蓋を開けてクンと匂いを嗅いでみる。深い苔むしたような香りは決して不快な香りではなかったが、その効能を知っている今ではとても口にしてみる気にはなれなかった。 「こっちは……?」 ロイはボトルの蓋を閉めると古い本を手に取る。革表紙のついたそれをめくれば本ではなく日記なのだと判った。誰の物か判らない古い日記はインクが色褪せて、薄暗い室内では何と書いてあるのか判別出来ない。ロイはひとつため息をついて日記を閉じると、ハボックとアンダーソンが待つ店の方へと戻った。 「大佐っ」 「マスタング大佐!」 床に座り込んでいたハボックと、ハボックを庇うように立っていたアンダーソンがロイの姿を見てホッとしたような声を上げる。アンダーソンの手を借りて立ち上がったハボックは、ロイに駆け寄ってその腕を掴んだ。 「大佐っ、大丈夫だったっスか?変なもん、飲まされなかった?」 「私なら大丈夫だ」 ロイはハボックを引き寄せてギュッと抱き締めて言う。ハボックはホッと息を吐いてロイを見上げた。 「あの男は……?」 期待と不安に震える声でハボックは尋ねる。ロイは申し訳なさそうに首を振って答えた。 「逃げられた、……すまん」 そう言えば空色の瞳が大きく見開かれる。 「そ……スか」 震える声でそう呟いたハボックが、ロイの胸を押してその腕から逃れようとするのをロイはグイと引き寄せた。手にしたボトルと日記をハボックに見せて言う。 「その代わりこんなものを手に入れた。ボトルはお前が飲んだというあの酒だ。日記の内容はまだ見てないから判らないが読めば何か解決法が判るかもしれん。だからまだ諦めるのは早い、ハボック」 そう言えばハボックが泣きそうに顔を歪めた。 「元に戻る方法を絶対に見つけてやる」 「たいさ…ッ」 ロイはハボックの体を抱き締めて、その耳元にきっぱりと言った。 三人揃って店の外へ出るとゆっくりと歩き出す。少し行って振り向いたロイは顎で示しながら言った。 「見ろ」 そう言われて振り向けば、さっきまで店があった場所は何もない薄暗がりと化していた。 「……何だったんでしょう、あの店」 ゾッとしたような声でアンダーソンが呟く。ロイは軽く首を振って答えた。 「判らん。一つだけはっきりしてるのは、あの店はあの男が自分の遊びの為のおもちゃを呼び寄せる為の場所だということだ」 「おもちゃって、俺達の事ですか?」 「そうだ。“面白い”と言っていただろう?あの店に足を踏み入れた人間がこの酒を飲んでどんな反応を見せるか、どう姿を変えどうするか、あの男にとって全ては招き寄せたおもちゃで遊ぶお遊びだったんだろう」 「……冗談じゃねぇッ」 ロイの言葉にアンダーソンが怒りに顔を歪める。ロイに肩を抱かれるようにして歩いているハボックを見て言った。 「そんなことの為に隊長はこんな姿にされちまったって言うんですか?そんな酷い話があっていいんですかッ?」 「いいわけがない」 こみ上げる怒りのままにそう言ったアンダーソンは、返ってきた低い声にハッとしてロイを見る。その横顔が怒りを湛えているのを見て、アンダーソンは呻くように言った。 「すみません、お二人の気持ちも考えないで」 「構わん。腸が煮えくり返っているのは私も同じだ。店ごと燃やしてやらなかったのが悔しくてならない」 低い平坦な声は余計にロイの怒りの深さを感じさせる。その怒りはこんな酒を飲ませた男にも男を取り逃がした自分自身にも向けられているようだった。 「とにかく手がかりはあの男が残していったこの酒と日記だけだ。なにが何でも絶対にハボックを元に戻す方法を見つけだしてやる」 ロイは真っ直ぐに前を見つめたまま言うと、ハボックの肩を抱く手に力を込めたのだった。 アンダーソンと別れてロイとハボックは家に戻った。リビングに入ると冷えきった部屋の中を暖めるためヒーターのスイッチを入れる。ロイはハボックをソファーに座らせるとハボックの前に跪きその手を取った。 「腹が減っただろう?今何か用意するから」 「オレがやるっスよ。簡単にできるもんでいいっしょ?」 「それは構わんが、疲れているんじゃないのか?」 肉体的にというより精神的なショックが大きいのではないだろうか。気遣うように尋ねるロイにハボックはにっこりと笑った。 「平気っス。パスタでいいっスか?」 「ああ」 「じゃあ作っちまいますね」 ハボックはそう言って立ち上がる。一緒に立ち上がったロイににっこりと笑って言った。 「作ってる間にシャワー浴びてきてください、大佐」 「ハボック」 「大して手間かかんないから一人で大丈夫っスから」 ね、と笑みを深めて言うとハボックはキッチンに行ってしまう。ロイは一瞬迷ったもののひとつため息をつくとシャワーを浴びるべくリビングを出ていった。 「すっげぇ手抜きっスけど」 そう言ってハボックはペペロンチーノとサラダの皿をテーブルに並べる。ロイはガーリックのいい匂いに鼻をヒクつかせて言った。 「そんな事ないさ。んー、いい匂いだ」 ガーリックの匂いに俄に食欲を刺激されてロイが言う。いただきます、と言う言葉と同時に食べ始めるロイを見て、ハボックも食べ始めたが少しして手を止めると言った。 「大佐、オレ、明日買い物に行ってきます」 「買い物?それなら私も行こう」 食材を買うなら重くなるだろう。そう思ってロイが言えばハボックが首を振る。 「いいっス。一人で平気」 そう言えば不服そうな顔をするロイにハボックは続けた。 「服、買おうと思って。大佐の服も今のオレにはちょっとデカいし、借りてばかりじゃ悪いし。それに……もしかしたらこのままずっと必要になるかもしれないし」 「ハボック」 ハボックの言葉にロイの声が険しくなる。 「絶対に元に戻す方法を見つけてやると言っただろう」 「判ってます。大佐の事、疑ってる訳じゃないっスけど、でも服がないと不便なのは事実っしょ?」 それでも気に入らないと言う風に睨んでくる黒い瞳にハボックは言った。 「必要最低限だけ。洗って干して着る分、三セットくらいかな。流石に下着買いに行く度胸はないっスけど」 へへ、と笑って見せるハボックをロイはじっと睨んでいたが、一つため息をついて言った。 「判った。必要最低限だけだ。それと私もついていく」 「大佐」 「いいな、ハボック」 有無を言わさぬ声音にハボックは小さく頷いて俯いた。 「片づけはしておくから腹が落ち着いたらお前もシャワーを浴びてきなさい」 食べ終えた食器を片づけようとすればそう言うロイをハボックは見つめる。コクンと頷いてダイニングを出ていくハボックの背を見送ってロイはひとつため息をついた。食器をシンクに運び、スポンジに洗剤を泡立て汚れを落としていく。カチャカチャと食器を洗っていればどうしようもない怒りがこみ上げて、ロイは食器を投げつけたい衝動を必死に押さえ込んだ。 「くそ……ッ」 呻くようにそう呟いて食器を洗う事だけに集中する。洗った食器を籠に伏せて手を拭いていると、シャワーを済ませたハボックがやってきた。 「大佐、申し訳ないんスけど、先に休んでもいいっスか?」 「勿論構わないが、どうした?気分でも悪いのか?」 慌ててハボックの側に寄ってその顔を覗き込めばハボックが笑う。 「そうじゃないっスけど、やっぱちょっと疲れたみたいっス」 「そうか。悪かったな、食事の支度をさせてしまって」 そう言えばハボックは笑って首を振った。 「オレなら全然平気っス。大佐も無理しないで早く休んでくださいね」 「ああ、判っている」 おやすみなさい、と言うハボックを引き寄せてロイはおやすみのキスをする。ハボックの背を見送ったロイは二階で扉が締まる音を聞くと、帰ってきた時に置いたままにしていたボトルを手に取った。瓶に貼ってあるラベルを見ても特に目新しい事は書いていない。 「一度成分を分析した方がいいだろうな」 今夜はもう遅いと酒の分析は明日に回してロイは日記を手に取る。色褪せたインクは明るい光の下なら何とか読むことが出来そうだった。 「あの男がわざわざ置いていったんだ。何かしら理由があるはずだ」 ロイはそう呟くとソファーに座り日記を開いて読み始めた。 色褪せた文字を追って読む日記は遅々として進まない。内容も最初の方を読む限りではファントム・レディとは全く関係がなさそうで、ロイは苛々と舌打ちした。 「くそ……」 呻くように言ってロイは目頭を揉む。日記を閉じて立ち上がると二階へと上がっていった。ハボックがここに来てから一緒に休んでいる寝室の扉を開けたロイは、ベッドの上のブランケットの小山を見つめる。ゆっくりとベッドに近づくとかけようとした声を飲み込んで、ロイはそっとブランケットを覗き込んだ。ブランケットの中から覗くハボックの顔。辛そうに眉間に皺を寄せて眠るその顔に、ロイはツキンと胸が痛んでブランケットごとハボックを抱き締めた。 「私が必ずお前を元の姿に戻してやる。だから少しだけ時間をくれ、ハボック」 聞く者もないままにそう呟くと、ロイはハボックを抱く腕に力を込めたのだった。 |
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