幻想女神  第二十六章


「遅くなりました、お待たせして申し訳ありません、サー」
「いや、無理を言ってすまなかったな」
 夕刻、言葉通りに現れたアンダーソンにロイは言う。執務室の窓からオレンジ色に染まる景色を眺めているハボックを、ロイは見て言った。
「ハボック、もう出かけられるか?」
 自分の方は早々に見切りをつけてしまった。ハボックも特に今せねばならぬ事はない筈だからわざわざ聞くことも本当なら必要なかったが、それでもそう尋ねたロイにハボックからの答えはなかった。
「ハボック?」
 答えないハボックを訝しんで、ロイは椅子から立ち上がりながら言う。カーテンを握り締めて黙ったまま外を見つめているハボックに近づきながらもう一度呼んだ。
「ハボック、どうした?」
 そうすれば漸くハボックが外に向けていた視線を戻す。夕日のせいでオレンジ色に染まった瞳が不安に揺れているのを見て、ロイはうっすらと笑った。
「私がついているだろう、ハボック」
「たいさ……」
 ロイは言ってハボックの体をギュッと抱き締めてやる。金髪に頬を擦り寄せ、元気づけるように背中を撫でるとそっとその体を離した。
「行こうか」
 笑みを浮かべて言えば頷くハボックの肩を抱いて、ロイはアンダーソンを見る。
「では、案内を頼むよ、アンダーソン伍長」
 その声に顔を赤らめて二人を見ていたアンダーソンが飛び上がった。
「はいっ、サー!」
 慌てて敬礼すると、カチコチに固まった手足をぎくしゃくと動かして執務室から出る。後からゆっくりとした足取りで出てくる二人をちらりと振り返ってアンダーソンは思った。
(うひゃー、なんか恋愛映画のワンシーンみたいだったなぁ。いっそ二人とも軍人なんてやめて役者になりゃいいのに)
 きっと大ヒット間違いなしだ、などと考えながらアンダーソンは廊下を歩いていく。一度足を止めてロイを振り向くと言った。
「車を回してきます。正面玄関でお待ちください」
「いや、歩いていこう。大した距離じゃないだろう?」
「そうですか、判りました」
 ロイの言葉に頷いてアンダーソンは二人の数歩前を歩いていく。司令部の建物を出て、繁華街への道を歩きながらロイはアンダーソンに尋ねた。
「その店には偶然立ち寄ったんだろう?よく覚えてたな、酔っていたろうに」
 そう言えばアンダーソンが苦笑して答える。
「ええまあ。いい店だったら彼女連れていこうかと思いましたし。実際はそんな店じゃなかったですが」
「どんな店だったんだ?胡散臭いマスターがいたと言っていたが。他に客はいなかったのか?」
 聞かれてアンダーソンは歩きながらあの夜行ったバーを思い出そうとする。薄暗い店内、カウンターの向こうに佇む不思議な笑みを浮かべたマスターの事を思い出して言った。
「薄暗くてひんやりとして、紫色のヴェールがかかったような不思議な店でした。客は……自分たちが行ったときは誰もいなかったと思います」
「それで?何故ファントム・レディが出てきたんだ?注文した訳じゃないだろう?」
 カツカツと急速に暮れていく通りに靴音を響かせてロイが聞く。アンダーソンは司令部からこっち、一言も口をきかないハボックを気遣うように見ながら言った。
「注文してません、そもそも知らない酒でしたし。あの時は確か店に入って適当にバラバラと腰掛けて、飲みたい酒を注文したんでしたよね、隊長」
「あ、うん、そう。もう結構飲んでたけど、これで締めとか言って」
 話をふられて俯き加減に歩いていたハボックが、顔を上げて答える。だが、すぐに視線を落としてしまうハボックを横目で見ながら、ロイはアンダーソンに先を促した。
「注文した酒を飲んでたらマスターがボトルとグラスを持って来たんです。珍しい酒があるんですがどうですかって。飲む人間によって味が変わる酒なんて信じられなかったですけど、みんな酔ってましたから、持ってこいってなって」
「なるほど」
 頷くロイにアンダーソンが尋ねる。
「あのマスター、酒を飲んだらどうなるかって知ってたんでしょうか」
「おそらくな。知らなきゃ勧めやしないだろう」
 ロイの答えにアンダーソンが思い切り顔を顰めた。
「とんでもない野郎だな。一発ぶん殴ってやる」
「殴るなら私が聞きたいことを全部聞いて、ミディアムレアに焼いてからにしてくれたまえ」
 ボソリと呟くアンダーソンにロイが苦笑して言う。そうして話すうちに三人は飲食店やバーが立ち並ぶ界隈に差し掛かってきていた。夜の楽しみを求めて歩く人々で賑わう通りを歩いていくと、アンダーソンが指さして言った。
「あそこの角を曲がったところです」
 その声にロイの腕の中のハボックの体がビクリと震える。ロイは抱く腕に力を込めて頷くと、アンダーソンに続いて角を曲がった。
 角を曲がった先は細い路地だった。けばけばしいネオンの看板が幾つも並び、表通りとは違った退廃した空気が包んでいる。しどけない格好をした商売女たちが店の前に立ち、ロイ達が通ると卑猥な言葉で誘いをかけてきた。それにはわき目もふらず三人は路地を奥へと歩いていく。暫くいくと店が途切れ辺りが少し暗く感じられたところでアンダーソンが言った。
「あれです。あの店」
 そう言われて視線を向ければ、少し離れたところにぼんやりと光るネオンが見えた。客引きの女達が途切れた通りを歩いて店の前までくる。消えかかった文字で「Illusion」とかかれた店の扉を見上げて、ハボックが目を見開いた。
「どうして……?オレ、この通りも見たはずなのに……そん時は絶対なかったっス!」
 ロイを振り仰いでそう叫ぶハボックを落ち着かせるようにロイはその背を叩く。傍らに立って扉を見つめているアンダーソンに向かって言った。
「ここにこの店があると確信があったか?アンダーソン伍長」
「ええ。ちゃんと覚えてましたから」
 聞かれてアンダーソンはロイを見て答える。自信を持って言い切るアンダーソンの言葉に、ロイは手を顎に当てて考えた。
「一度目は探さずとも入れるが、二度目は場所を知ってないと見つけられないのかもしれんな。ハボック、お前、この通りも見たには見たが、店がここにあると確信があった訳じゃないだろう?」
「そりゃそうっスけど……」
 言われてハボックはしょんぼりと俯く。そんなハボックの頭をポンポンと叩いてロイは言った。
「誘い込む為に一度は気づく。二度は来て欲しくないから見つからない。あんな胡散臭い酒を出す店ならそういう細工がしてあっても不思議じゃないさ」
「そんな言い方されると、まるでこの店がこの世のものじゃないみたいに聞こえますね」
「そうかもな」
 ロイの言葉に恐ろしげにアンダーソンが呟けば、ロイは何でもないように頷く。それにギョッとするアンダーソンを見て、ロイは言った。
「案内してくれてありがとう。この先は私たちだけで大丈夫だから帰ってくれて構わんぞ」
 正直なところこの扉を開けたらなにが待っているのか、ロイにも判らない。プライベートな事に巻き込む理由はなく、ロイがそう言えばアンダーソンがニヤリと笑った。
「ここまで来たら自分も行きますよ。俺たちの隊長をこんな目に遭わせた野郎に文句の一つも言わないと気が済みませんし」
「マイク……」
 その言葉にハボックが泣きそうな顔でアンダーソンを見上げる。アンダーソンは励ますようにハボックに頷いて見せるとロイに言った。
「自分ならいつでもOKです。あの胡散臭いマスター締めあげて早いとこ隊長を元の隊長に戻しましょう」
「そうだな」
 アンダーソンの言葉にロイもニヤリと笑う。
「よし、行くぞ」
 ロイはそう言ってハボックの手を取ると黒い扉をグイと押し開けた。


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