幻想女神  第二十三章


「ハボック、そろそろ行くぞ」
 一渡り話が済んだであろう頃を見計らってロイが言う。ハッとして振り向く空色の瞳が不安に揺れているのを見てロイは微笑んだ。
「私がついているんだから大丈夫だと言っているだろう?それともそんなに私は信用できんか?」
「……大佐って必要な時は平気で嘘つくじゃん」
「おい」
 確かに嘘も方便とばかりに多少の事は言ってはいるが、本当に大事なときに嘘偽りを口にした事は一度もない。そもそもこのタイミングでその台詞はないんじゃないかと、ロイは片手を腰に当てハボックを斜めに見上げて呼んだ。
「ハボック」
「判ってます、すんません」
 ムスッと唇をへの字に曲げて言うハボックにロイはため息をつく。そんな二人を見て取りなすようにホークアイがロイを呼んだ。
「大佐」
「判ってる、中尉」
 手を挙げて答えるとロイはハボックに近づく。僅かに眉を寄せて唇を尖らせているハボックの表情にクスリと笑って、ハボックの髪をかき混ぜた。
「ハボック」
 髪をかき混ぜた手を肩に滑らせロイはハボックを連れて執務室の外へ出ようとする。扉を開こうとドアノブを回したロイは、引きもせぬのに内側に開いてきた扉から後ずさった。
「わっ、バカッ、押すなッ!」
「もっと前行けよっ」
「よく見えねぇ…ッ」
「うわわわわ……ッッ」
 ワアアッと言う声と共に扉にたかっていたらしい男どもがなだれ込んでくる。イテテだの、どけだの言っている男達を見下ろしてロイが言った。
「なんなんだ、お前達は」
 不愉快そうにロイが言えば男達が誤魔化すような笑みを浮かべる。だが、ロイに睨まれて中の一人がおずおずと口を開いた。
「いやその……マスタング大佐が凄い美女を連れてきたっていうから」
「俺っ、知ってますっ!ジャクリーンちゃんだよねっ?俺この間あの店でランチ食べたんだよ、覚えてるっ?」
 そう言って短く髪を刈り込んだ男が立ち上がってハボックに近づく。驚きに目をまん丸にしているハボックの手を取って言った。
「嬉しいなぁっ!あの後店に行ってもいないし、それがこんなところで会えるなんて!」
「君、ジャクリーンちゃんって言うんだ。俺はマックス、これ、君に!」
 マックスと名乗った男は小さなブーケをハボックの手に押しつける。思わず受け取ってしまったハボックを見て、他の男どもが怒声を上げた。
「おいこらっ、なに抜け駆けしてんだッ!」
「ジャクリーンちゃん、俺はサイモン。よろしくねっ」
 そう言ってサイモンという男がハボックの手をギュッと握る。それを見た男達が俺も俺もと次々にハボックの手を握るに至って、それまで呆然としていたロイがハッとして怒鳴った。
「貴様らッ!なにをしているっ、手を握るなッ!離れろッッ!!」
 ロイはハボックの手を握る男達の手を振り払いハボックを背後に庇う。
「ここをどこだと思ってるんだっ、さっさと出て行けッ!」
「そんな、マスタング大佐っ、ちょっとでいいんです、彼女と話をっ!」
「いつもいつも美女を独り占めなんて狡いですッ!」
「ジャクリーンちゃ〜ん、俺とデートしてっ」
 ギャアギャアと騒ぎ立てる男達にロイの怒りが頂点に達した。
「貴様ら……一人残らず燃やしてやるッッ!!」
「わああ、大佐っ、ちょっと待ってッ!」
 発火布をはめた手を振りかざすロイにハボックが慌ててしがみつく。流石に身の危険を感じた男どもがバラバラと司令室から逃げ出していけば、後には怒りに肩で息をするロイと呆然とするハボック達面々がとり残されていた。

「今ちょっと見てきましたけど凄い噂になってますよ」
 司令室に戻ってくるなりブレダが言う。ムスーッとして腕を組んで椅子に座っていたロイがジロリとブレダを見て言った。
「入口からここまで歩いてきただけだぞ。どこかに寄り道したわけでもないし大した時間はかかってない筈だ」
 それがどうして噂になるんだ、と思い切り不愉快そうに言うロイにブレダは苦笑する。チラリとホークアイを見れば、美人の副官も同じように笑っていた。
「とにかく話を聞くにしても詰め所に行くよりこちらに呼んだ方がいいでしょうね」
 ホークアイの言葉にロイもため息をついて頷く。尋ねるようにブレダを見ればすぐに答えが返ってくる。
「アンダーソンなら今出てます。三十分ほどで戻るというんで戻ったらこちらに来るよう言ってありますから」
「判った」
 ロイはブレダに頷くとホークアイを見た。
「三十分あるらしいよ、中尉。書類があるなら見ておこう」
「お願いします、大佐」
 ロイがそう言うのを待っていたかのようにホークアイが書類の束を差し出す。ロイは一瞬顔を顰めたがなにも言わずに受け取ると書類をめくり始めた。書類仕事は嫌いだと言いつつも、あっと言う間に集中してしまったロイの横顔をハボックはじっと見つめる。小さく息を吐いて立ち上がると司令室から出ていこうとする背にホークアイが声をかけた。
「ハボック少尉?」
「コーヒー淹れてきます。すぐ戻りますから」
「気をつけて」
 司令部の中なのにそんな風に言われてハボックは一瞬目を瞠る。それから困ったように笑うと司令室を出て、すぐ側の給湯室に入った。先客が誰もいないことにちょっとホッとしてハボックはコーヒーをセットする。コポコポと音を立ててコーヒーが落ちるのを、ハボックは壁に寄りかかってぼんやりと見つめた。
「大佐にもみんなにも迷惑かけてるな、オレ……」
 幾ら今事件を抱えていないとはいえ、慢性的に忙しい司令部だ。その中で一度に二人も一週間の休暇を取ったりしたらやはり大変に違いない。
「………」
 しかも自分では判らないが、どうも女性と化した自分は男性に対してある種のフェロモンがあるらしい。
「男が女になってたら気味悪いだけじゃねぇの?」
 相変わらずそう思いはするもののこれ以上余計な迷惑をかけるわけにはいかないと思えば、一人勝手に動き回るわけにもいかない。
「早く男に戻んないと」
 そうすればもうロイにもみんなにも迷惑をかけずに済むのだ。その為には早くマイクと話をしなければと、ハボックはコーヒーをカップに注ぐと急いで司令室に戻ったのだった。

「大佐、コーヒーどうぞ」
「ああ、ありがとう」
「中尉と、ブレダたちも」
 ハボックはそう言って皆にコーヒーを配って歩く。最後にトレイに残った一つを手に持つと、ハボックは窓辺に立って司令室の中を見回した。
 書類を書いたり電話をしたりと皆それぞれに忙しく立ち働いている。いつもなら自分もその中にいるのにと、ハボックは深いため息をついた。
(大佐の言うとおりだ。深く考えないで行動するからこんな目にあってみんなに迷惑かけて)
 そう考えてハボックは手にしたカップを握り締める。唇を噛んで俯けば、ピンッと額を指で弾かれてハボックは痛みと驚きに顔を上げた。
「また考えても詮無いことを鬱々と考えてるな、お前は」
「たいさ……」
 黒い瞳に睨まれてハボックは口をへの字に曲げて視線を落とす。ロイはそんなハボックに苦笑して顎を掬うとハボックの顔を覗き込んだ。
「余計な時間があるとくだらない事を考えてしまうのは人間の常だが」
 ロイはそう言ってハボックの額に口づける。目元に、鼻に、頬に、顎に口づけて最後に唇に口づけた。啄むように口づけていたのが次第に深くなり、ロイがハボックを抱き締めて更にその唇を貪ろうとした時。
「大佐、場所柄をわきまえて頂きたいのですが」
 冷ややかな声が聞こえて、それまで大人しくキスを受け入れていたハボックが飛び上がる。逃げようとするハボックを引き寄せてロイは肩越しにホークアイを振り向いて言った。
「すまないな、大事な恋人がしょぼくれていたのでつい励ましたくなってしまったよ」
 悪びれもなくそう言うロイにホークアイの眉間の皺が深くなる。その時、司令室の扉をノックする音がして、一人の下士官が姿を現した。


→ 第二十四章
第二十二章 ←