幻想女神  第十九章


 ひとしきり泣いて漸く落ち着いたハボックにマスターが熱いおしぼりを差し出す。小さな声で礼を言って、ハボックは受け取ったおしぼりで涙に濡れた顔を拭いた。
「大佐もハボックさんも食事まだでしょう?もしよかったら軽く食べませんか?ピラフでも作りますよ」
 にこにこと笑ってマスターが言う。それを聞いてハボックが慌てて言った。
「だったらオレ作るっス。色々迷惑かけたし、それくらい───あれ?」
 ロイに身を預けるようにして座り込んでいたハボックだったが、立ち上がろうとして力が入らないことに気づく。なんで?と不安そうに見上げてくる空色の瞳を見返して、ロイはハボックの頬に触れた。
「安心して気が抜けたか?それともお前、あの酒、口にしたのか?」
 ロイは男達がハボックに薬入りの酒を飲ませようとしていた事を思い出して言う。ハボックはよく判らないというように首を振った。
「判んないっス。無理矢理飲まされそうになったから歯食いしばってたけど、もがいてるうちに少しくらい口にしたかもしれねぇっス」
 そう答えたハボックは琥珀色の酒を思い出して唇を噛む。キュッと目を瞑って言った。
「あの酒、リアル・ガールって、ファントム・レディの効力を打ち消す酒だって。これを飲んだら男に戻れるって……。これでやっと元に戻れるんだって、そう思ったのに……」
「奴ら無理矢理飲まそうとしてたな。元に戻れると思ったならどうして飲まなかったんだ?」
 不思議に思ってロイが尋ねれば空色の瞳がロイを見る。
「だって、アンタが言ったんしょ?よく判んないものを口にする危険を考慮しろって。だからオレ、あの酒買って帰って家で飲もうと思ったんス。それで売ってくれって言ったら、ここで飲めって……」
 その言葉を聞いてロイは僅かに目を瞠った。それから大きなため息と共にハボックを抱き締める。不思議そうに名を呼んでくるハボックを強く抱き締めて言った。
「学習しない犬だと思っていたが、少しは私の言うことも聞いていたか」
 もし酒を出された時、ハボックが何も考えずにそれを口にしていたら、ロイが目にしたのはハボックが男達に乱暴されているその瞬間だったかもしれない。安堵の吐息を零して抱き締めてくるロイの胸に体を預けながらハボックはほんの少し頬を膨らませた。
「学習しない犬って……」
 確かに一度ならず二度までも危ない目にあった訳だが、それにしたってその言い方はないだろう。ハボックがロイの胸に向かってぼそぼそと不平を口にすればロイの黒曜石の瞳が睨んできた。
「何か言いたいことがあるのか?」
「……や、ないっス」
「そうだろうとも」
 首を竦めるハボックにロイがフンと鼻を鳴らした時、マスターが皿を手にして二人に声をかける。
「大佐、ハボックさん、よかったら熱いうちにどうぞ」
 そう言ってテーブルの上に湯気の上がるピラフの皿を置いた。オリーブオイルとガーリックのいい匂いを嗅げば、俄に空腹を感じる。ロイはハボックの体を支えて椅子に腰掛けさせると自分はその隣に腰を下ろしてマスターを見た。
「ありがとう、マスター。色々と気遣ってくれて」
「いえいえ、これくらいしかお役にたてなくて」
 マスターはにっこりと笑って答える。ハボックに視線を移して言った。
「ハボックさん、大丈夫?食べられそうかい?」
「あ、うん…なんとか。変にだるいけど、大丈夫」
 ハボックは答えてぎこちない手つきでスプーンを手に取るとピラフを食べ始める。熱々のそれにホッと息を吐いて言った。
「なんかすげぇ腹に沁みる気がする……」
「腹も減ったしホッとしたし。色々あるんだろうが、いつにも増しておいしいよ、マスター」
「それはよかった」
 マスターは言いながらサラダの器も二人の前に置く。勧められるままに腹を満たして、二人は満足のため息を漏らした。
「ああ、旨かった。ごちそうさま」
「ごちそうさまでした、マスター」
 口々に礼の言葉を口にする二人にマスターが嬉しそうに笑う。
「今日は本当に最初から最後まで世話になってしまった。今度必ずこの礼はするよ、マスター」
 ロイがそう言えばマスターは悪戯っぽく笑って言った。
「いや、もう十分お礼はして貰ったから大丈夫ですよ。大佐には申し訳ないけど今日の売り上げ、三割増しだったんで」
 その言葉にロイが複雑な表情を浮かべる。二人の様子を見て、ハボックが不思議そうに言った。
「今日の売り上げ、よかったんスか?大佐、アンタ、なんでそんな顔してんの?」
 自分が余計な手伝いをしたせいで迷惑がかかったのではと心配していたハボックは、そうはならなかったらしい事にホッと息を吐きながらもロイの表情に首を傾げる。いつまでたってもどこまでいっても、もの凄く鈍いハボックの顔をロイはうんざりと見つめてため息をついた。その様子にマスターが苦笑する。ロイはマスターに向かって肩を竦めて言った。
「私に同情の一つもしたくなるだろう?マスター」
「ははは、心中お察しします、大佐」
 そんな言葉を交わす二人にますます首を傾げるハボックの頭をぽふぽふと叩いてロイは立ち上がる。
「ありがとう、マスター。ほら、行くぞ、ハボック」
 そう言われてハボックは腰を上げたもののまたふらふらと椅子に戻ってしまった。
「たいさ……」
「お前、やっぱり口にしたな」
 ままならない自分の体に困りきって見上げてくるハボックにロイは眉を顰めて言う。ロイがハボックを横抱きに抱えあげようとすれば、ハボックが力の入らない腕でロイを突っぱねた。
「やだっ、それ、絶対いやっス!」
「立てないなら仕方ないだろう?」
「おんぶ!おんぶがいいっス!」
「さっきは大人しく抱かれてたのに……」
 ラツァリーネから連れ帰るときは、姫抱きに抱えていても文句を言うどころかしがみついてきたくせに、とロイにボソリと言われてハボックが真っ赤になる。
「あん時は混乱してたしッ!助かって気が抜けてたしッ!」
 ぎゃあぎゃあと喚くハボックにうんざりしてロイはハボックを抱えあげるのを諦め背中を向けて跪いた。
「ほら、さっさと乗れ」
「あ…はい」
 ハボックはホッと息を吐いてロイの肩に手を伸ばす。ギュッと首にしがみつけばロイは据わりのいいように揺すりあげて立ち上がった。
「大丈夫ですか?変なもの飲まされたなら医者に見せなくて」
「大丈夫だろう、奴らとしてもいっとき自由を奪うだけのつもりだったろうからな」
 心配そうに言うマスターにロイが答える。もう一度礼を言ってロイはハボックをおぶって店の外へ出た。ヒヤリと冷たい空気が肌を刺したが、互いの温もりがその冷たさを遠ざけた。
「たいさ、今日はもう帰るんスか?」
「……こんな状態で探して歩く気か?お前」
 低い声に怒りを滲ませてロイが言えば、ハボックが口を噤む。はあ、と小さなため息をついてハボックはロイの肩に頬を寄せた。
「ごめんなさい、たいさ……」
「すまないと思うならもう少し私の言うことを聞け」
 そう言われて頷く代わりにハボックはロイにしがみつく腕に力を入れる。ロイはハボックの腕をポンポンと叩いて歩きだした。

 安定した歩調で揺すられて、家についた頃にはハボックはロイの背中でスウスウと寝息を立てていた。ロイは鍵を開けて中に入ると二階への階段を上がる。ベッドにハボックの体を下ろせばむずかるように腕を伸ばしてロイにしがみついてきた。
「ハボック、もう着いた。何も心配いらないから眠りなさい」
 そう言ってしがみついてくる腕を外させて、ロイはハボックの金髪をかき上げる。ハボックはポヤンとした顔でロイを見上げていたが、のろのろと起き上がった。
「ハボック?」
 一体どうしたのかとロイが目を丸くしてハボックを呼べば、トロンと眠そうな空色の瞳がロイを見る。ハボックは僅かに顔を顰めて言った。
「臭い……風呂入る……」
「え?」
 言われてみればハボックの服や髪から独特な匂いがしてくる。色んな匂いが立ち上る繁華街ではあまり気にならなかったが、こうして家に戻ってくれば否応なしにその匂いが鼻をついた。
「風呂……」
 ハボックはそう呟いてベッドから下りようとする。その途端グラリと傾いだ体を支えてロイはため息をついた。
「そんなで風呂は無理だろう?」
「ヤダ」
「ハボック」
「ヤダ、絶対入るっ……」
 半分夢の国に足を突っ込んでいるせいだろう、子供のように聞き分けのないハボックにロイはもう一度ため息をついてその長身を抱え上げた。
「まったくもう……」
 ロイはそう呟いてハボックを浴室に運び込む。脱げるか?と尋ねればゆったりと首を振られロイは情けなく眉を下げた。
「一体どうして私がこんな事を」
 ロイはまず自分が服を脱ぐとそっとハボックに手を伸ばす。ぼんやりと見上げてくる空色の瞳を見返して言った。
「言っておくがな、お前が脱げないと言うから脱がしてやってるんだぞ。別にお前をどうこうしようという訳じゃないからな」
 言い訳がましくそう言いながらロイはふらふらとしている体からシャツを脱がせズボンをはぎ取る。アンダーシャツを脱がそうと手をかけて、その見事な膨らみに目をやってしまったロイは慌てて目を逸らした。
「なんだか体ばっかり大きい小学生の娘と一緒に風呂には入っている父親の気分だ……」
 そう呟いてロイはハボックの服を全部脱がせてしまう。白い肌は相変わらずだが、完全に女性のそれと化してしまったハボックの体をロイはまじまじと見つめた。
「女になったのは判っていたが……改めてみると信じられんな。本当に一体どういう酒なんだ、ファントム・レディと言うのは」
 そう呟きながらハボックの体を見つめるロイの目は科学者のそれだ。ロイはハボックの胸に手を伸ばすと片手には余る柔らかい塊をそっと掴んだ。
「全く違和感がないな。明らかに女性の胸だ」
 ロイはそう言って白い胸の頂を飾る紅色をキュッと摘む。そうすればハボックがピクンと震えてロイを見た。
「ちゃんと触感があるんだな」
「たいさ……?」
 夢と現の間でゆらゆらと揺蕩いながらハボックがロイを呼ぶ。ロイは興味にかられるまま、ハボックの脚を開くと淡い茂みの中に手を伸ばした。
「すごい、ちゃんと女性だ」
 驚きに目を見開きながら奥へと指を滑らせる。男のハボックにはない割れ目を見つけるとそっと指を這わせた。
「ひゃんっ!」
 その途端トロンと眠気に蕩けていたハボックの瞳が大きく見開かれる。己の脚の間に入り込んだロイの手を見たハボックは、次に間近のロイの顔を見てブルブルと唇を震わせた。
「な、な、何やってるんスか、アンタ……ッ」
「いや、これはちょっと興味をかられてだなっ、本当に全部女性なのかとっ」
 慌てて手を引っ込め必死に言い訳するロイを、怒りと羞恥の表情を浮かべて睨んでいたハボックの瞳が、不意に揺らいだかと思うと大粒の涙を零す。ハッとしたロイが何か言うより早く、ハボックが言った。
「大佐、やっぱオレ、女の方がいいっスか?男のオレが恋人だと色々めんどくせぇだろうし、やっぱ女の方が…ッ」
「ハボックっ!!」
 泣きながら吐き捨てるように言うハボックをロイはギュッと抱き締める。震える体を優しく撫でながら耳元に囁いた。
「悪かった、ハボック。別にお前が女性になったからどうこうしたいと思った訳じゃないんだ。つい、見たことのない事象に出くわすと追求したくなるというか……っ」
 ロイはそこまで言ってハボックを抱き締めたままため息をつく。
「そうだとしてもお前にしてみればずいぶん失礼な話だな……。すまなかった、ハボック。だが、私はお前が女性だったらいいと思ったことなど一度もないよ。私はジャン・ハボックという人間が好きなんだ、男も女も関係ない」
「大佐……」
 きっぱりと言うロイをハボックはじっと見つめた。ロイは長い睫に宿る涙の滴を指先で拭う。
「風呂に入りたかったんだろう?ぐずぐずしていたら風邪をひいてしまう。さっさと体を洗って───」
「力入んなくて洗えねぇっス。大佐、洗って?オレの体、よく見てみたいんでしょ?」
「えっ?!いや、だからあれは…ッ」
「お願いしますね、大佐」
 勝手に人の体を触った仕返しとばかりににっこり笑ってそう言うハボックの、見事なまでのナイスバディを前に、顔を赤らめて凍り付くロイだった。


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