幻想女神  第十五章


「さて、今日はどこから探そう」
 ハボックは走っていた足を緩めて歩く速度まで落とすと賑わい始めた通りを歩いていく。平気だと言った手前、また危ない目に遭うようなことは絶対に避けなければならなかった。
「オレだって学習するんだから」
 ハボックはそう言って辺りを見回す。情報屋に聞いてもバーテン連中に聞いても判らないとなれば次は誰に聞けばいいのだろう。ハボックが腕を組んで首を捻っていると、丁度傍を通りかかった女性が声をかけてきた。
「どうかしたの?道に迷いでもした?」
 どこかのバーに勤めているのだろうか、けだるげに艶やかな黒髪をかき上げて尋ねる仕草は妙にセクシーだ。
「それとも勤め口でも探してるのかしら?」
 真っ赤な唇に笑みを浮かべて尋ねられて、ハボックは慌てて首を振った。
「いやっ、そんなんじゃぜんぜんないからッ」
 そう言ってそそくさとその場を離れようとしたハボックだったが、ふと思いついて尋ねた。
「あのさ、この辺で酒の事に詳しい人いるところ知らない?」
「お酒の事に詳しい人?」
 突然思いもしないことを聞かれて女性は目を見開く。綺麗にマニキュアを塗った指先を口元に当てて暫し考えると言った。
「そうね、酒造協会にでも行ったらどうかしら」
「酒造協会?」
「そう。バーとか酒屋とか、酒を扱う業者を一手にまとめているところよ。そこに行けばそういう人がいるかもね。駅前に事務所があるわ」
 そう言って女性は黒い瞳を細めて笑う。
「大佐が女の子になったら貴女みたいな感じかなぁ」
 女性を見ていてふとよぎった面影に思わずハボックがそう呟けば、女性はキョトンとしてハボックを見た。
「大佐?」
「ああ、ごめん、こっちの話。駅前の酒造協会だね、ありがとうっ」
 ハボックがそう礼を言えば女性が笑ってひらひらと手を振る。それにハボックも手を振り返して、駅前に向かって走っていった。

「こんばんはー」
 ハボックはガラス張りの扉を押し開けながら中を窺う。扉が軋んで開く音に振り向いた男と丁度目があって、男はハボックを見るとにっこりと笑った。
「こんばんは、お嬢さん。どんなご用でしょう」
 ちょっと長めの茶色の髪をした男は緑色の瞳に笑みと興味を浮かべながらハボックを中へと招き入れる。部屋の片隅に置いてあるソファーを勧めると自分は向かい側に腰を下ろした。
「俺はロベルト、この協会の事務局長をしてる。で?今日はなんのご用?新しくバーでも始める?こんな綺麗なお嬢さんの話なら、何でも聞いちゃうな、俺」
 そう言ってロベルトと名乗った男は低いテーブルに肘をついて身を乗り出す。ニコニコと必要以上に愛想のいい相手にハボックは引き気味に背をソファーに張り付けて答えた。
「いや、店とかそう言う事じゃなくて、ちょっと知りたいことがあるんだけど」
「知りたいこと?」
 鸚鵡返しに問いかけられてハボックは頷く。
「うん、あの“ファントム・レディ”っていう名前の酒、知らないかな?薔薇色で飲む人によって味が変わるっていう酒なんだけど」
「薔薇色で飲む人によって味が変わる?飲む人間によって旨いと思ったり不味いと思ったりするってこと?」
「うん」
 頷くハボックの顔をじっと見てロベルトは尋ねた。
「その酒のことを調べてどうするの?買い付けたいわけ?」
 そう聞かれてハボックは口を噤む。理由を言うべきか否か悩んだ末、膝の上で握り締めた手を見つめながら答えた。
「信じてもらえないかもしれないけど……何日か前、初めて入ったバーでその酒を飲んだんだ。そうしたら」
 そこまで言ってハボックはもう一度悩む。
(本当の事言っても信じて貰えないかも。むしろふざけるのもいい加減にしろって叩き出されるのが関の山とか)
 途中まで言いかけて黙ってしまったハボックをロベルトはじっと見つめた。それから立ち上がるとテーブルを回りハボックの隣に腰掛ける。膝の上で白くなるほど握り締めたハボックの手をそっと取って両手で包み込んで言った。
「どんな突拍子もないことでも信じるから言ってみて、ね?」
 優しい声にハボックは顔を上げてロベルトを見つめる。緑色の瞳が励ますように頷くのを見て、ハボックはゴクリと唾を飲み込んで言った。
「性別が変わったんだ。一晩寝て目が覚めたらオレ、女になってた」
 そう言えば流石にロベルトの瞳がまん丸に見開かれる。やはりこんな冗談みたいな話は信じて貰える筈がないのだと、ハボックはロベルトから目を逸らして言った。
「ごめん、やっぱ信じられないよね。聞いてくれてありがとう、他に行って探してみるから」
 ハボックはそう言って立ち上がろうとする。だが、右手を掴まれたままでは立ち上がれず、ハボックはロベルトの手を振り解こうとした。
「あの…っ、オレ、もう行くから」
 そう言ってもロベルトは手を離そうとしない。困りきったハボックが何とか手を取り戻そうとして引っ張れば、それを上回る力で引っ張られてハボックはロベルトの胸に飛び込んでしまった。
「うわっ」
 慌てて離れようとする体を抱き締められて、ハボックは広い胸に頬を預けたままロベルトを見上げる。驚きに目を瞠るハボックを見下ろしてロベルトは言った。
「それで、君は男に戻るためにその酒を探してるんだ」
 そう聞かれてハボックはおずおずと頷く。ロベルトはハボックを抱き締める腕に力を込めて言った
「俺が一緒に探してやるよ。一人で探すより二人で探したほうが早いだろう」
 ね?と笑う緑の瞳を、ハボックは信じられないとばかりに見上げたのだった。

「マスターっ!」
 ロイはコーヒーショップの中に飛び込む。コーヒーを淹れる気にもなれず、苛々としながら待っていたマスターは椅子から飛び上がってロイを迎えた。
「ああ、大佐っ、すみませんっ」
 泣き出しそうな顔をしたマスターにロイは掴みかかるように近づきながら尋ねる。
「一体どう言うことだ?ハボックはっ?」
「それが……」
 マスターはおろおろしながらもハボックが店を飛び出していったいきさつを話した。
「何とか引き留めようとしたんですけど、飛び出して行ってしまって……」
 本当に申し訳ないと頭を下げるマスターに気にしないでくれと肩を叩いてロイは目を吊り上げた。
「マスターは悪くない。あれだけ言って置いたのに言うことを聞かんハボックがなにもかも悪い」
 怒ってはみてもとにかくまずハボックを引っ捕まえないことには心配でたまらない。
「どこに行くとか何か言っていなかったか?」
「すみません、なにも」
 申し訳なさそうに言うマスターに首を振ったロイは、とにかくここでじっとしていても埒があかないと、もしハボックが戻ってきた時には引き留めておくよう頼んで、店を後にしたのだった。

「まったく、あれだけ言ったのに、ハボックの奴…ッ」
 ロイは苛立たしげに言いながら賑わう通りを歩いていく。目立つ金髪が見えないかときょろきょろと見回しながら歩くロイに、あちこちから客引きの声がかかった。それには全く耳も貸さず歩いていくロイだったが、あまりにひっきりなしにかかる声にいい加減苛ついて呻いた。
「ああ、うるさいっ、私はそれどころじゃないんだッ」
「それどころじゃないなら何なのよ」
 そのつもりはなかったものの、たまたまロイの呟きを正面で受け止めてしまった女性が答える。けだるげに黒髪をかき上げて眉を顰める女性にロイは慌てて言った。
「ああ、申し訳ない、貴女に言ったんじゃないんだ」
 ロイがそう言って笑みを浮かべれば女性も赤い唇に笑みを浮かべる。
「随分と苛ついてるみたいね。私のところで憂さ晴らししていかない?」
 そう言って女性は唇に赤く染めた指を当てる。
「ありがとう、だがちょっと急いでいるのでね」
 ロイはそう言って先へ急ごうとした。その時、女性が小首を傾げてロイに向かって言う。
「大佐?」
「えっ?」
 呼ばれて驚いて振り向くロイに呼んだ当人も「あら」という顔をした。
「本当に大佐なのね」
「……どこかでお会いしたことが?」
 記憶力には自信があるが目の前の女性には見覚えがない。記憶を掘り起こそうとするようにじっと見つめてくるロイに女性は笑って言った。
「さっき金髪の女の子とすれ違ったんだけど、その子が大佐が女の子になったら私みたいかもって言ったのよ。じゃあ私が男になったら貴方みたいってことね」
 そう言って笑う女性の腕をロイは思わず掴む。
「金髪のっ?空色の瞳だったかっ?」
「ええ、綺麗な空色だったわ」
「どこに行った?!」
 噛みつくような勢いで聞いてくるロイに目を丸くしながらも答えた。
「お酒に詳しい人を知らないかっていうから駅前の酒造協会を教えてあげたけど」
「駅前の酒造協会だなっ、ありがとうっ!」
 ロイはそう叫ぶと弾かれたように走り出す。
「……忙しい人たちねぇ」
 瞬く間に人混みの中に消えていく背中を見送って、女性はけだるげに髪をかき上げたのだった。 


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