幻想女神  第十二章


 カランとドアベルの音と共にロイが行ってしまうとハボックは急に不安になった。ロイが気づいてくれる前までは一人でなんとかしようと思っていたのが嘘のように、どうしていいのか判らなくなってくる。ギュッと握り締めた手を胸元に抱え込むようにして立ち竦むハボックにマスターが言った。
「ハボックさん。もしよかったら流しの中に入れてある食器を洗ってもらえるかな?」
「えっ?……あ、うんっ、勿論!」
 マスターの声に一瞬ギクリとしたハボックは、すぐ気を取り直して頷く。エプロンを借りてつけるとカウンターの中に入り、汚れたままつけてあった食器を洗い始めた。
(今は色々考えるのはやめておこう。その為にマスターに無理言ってここにいさせて貰ってんだもん。考えない、考えない!)
 ハボックは呪文のように何度も繰り返しながら、ガチャガチャと食器を洗っていた。

 食器を洗ってしまうとハボックは濡れた手をタオルで拭く。次から次へと入れ替わり立ち替わりやってくる、モーニング目当ての客の応対にてんてこ舞いになっているマスターに言った。
「オレ、運ぶのやりましょうか?作ってもいいけど、店のやり方があるだろうし」
「そうかい?だったら悪いけどこれ、トーストとサラダと一緒に三番テーブルに持っていってくれる?」
「はい!」
 ハボックはマスターがカウンターに置いた出来立てのオムレツとコーヒーをトーストとサラダと一緒に一つのトレイに載せると、それを手にテーブルの間を歩いていった。側面に「3」と数字のプレートが貼られているテーブルの傍に立って言う。
「お待たせしました。Aセットです」
「ああ、ありが───」
 ハボックの声に新聞を読んでいた男は、手にしたそれを畳んで視線を上げた。そうしてハボックの顔を見た途端、そのまま凍り付いたように動かなくなってしまう。
「あ、あの……」
 目を見開いて見つめてくる男に、そんなに見つめるほど自分は気色悪いのだろうかと、ハボックが泣きそうになった時、男が口を開いて言った。
「ありがとう!君、初めて見るけどバイトの子かい?」
「えっ?……ええ、まあ……」
「今日は一日ここでバイトしてるの?」
 そう聞かれてハボックがおずおずと頷けば、男はにへらと笑った。
「そっかー。君みたいな美人がいるなら昼飯もここにしようかなっ、俺」
 ニヤニヤとしまりのない顔でそういう男にハボックは「どうも」と呟くように言ってテーブルを離れる。
「美人…?アイツ、目が悪いんじゃねぇの?」
 不思議そうにハボックが首を傾げながらカウンターに戻ろうとすれば、グイといきなり腕を引かれた。
「…ッ?!」
 ギョッとして振り向くと若い男がハボックを見上げている。男はハボックの腕を離さずにハボックを見つめながら言った。
「ごめん。呼んだんだけど気づかなかったみたいだったから」
「あ……すみませんっ、ご注文ですか?」
 テーブルの上に何もないのを見てハボックが慌てて言う。男は頷いてメニューを指さして言った。
「このBセットの目玉焼き、片面焼きとか両面焼きとか出来んの?」
「はい、注文の時に言って頂ければ」
 ハボックは答えながら男の手を失礼にならない程度に振り解いて手を胸元に引き寄せる。男も流石にそれ以上は何もせずに言った。
「じゃあさ、両面焼きにして。君が焼いてくれんだろ?」
「えっ?いや、その……」
「美味しく作ってよね」
 ニィッと満面の笑みを浮かべる男にハボックは引きつった笑みを返す。そそくさとその場を離れたハボックはマスターに注文を通した。
「マスター、一番にBセットひとつ!」
「了解!次、これ七番に持っていって」
「うんっ」
 カウンターに置かれたトレイを持ってハボックは店内にとって返しながら眉を顰める。
(なんでオレがあんな奴の為に卵焼かなきゃいけねぇんだよ。オレが焼くのは大佐の為だけだっつうの)
「おーい、オーダーお願い!」
「はい、ただいまっ」
 ハボックはニコッと笑みを張り付けるとテーブルの間をすり抜けながら、慌ただしく動き回るのだった。

「ありがとうございます、800センズになります」
 ハボックはそう言って受け取った金をレジにしまう。にっこりと笑うとこれから仕事に向かうのであろう男に言った。
「ありがとうございました。お気をつけて」
「ありがとうっ、ごちそうさまッ」
 ハボックに笑いかけられて男は顔を赤らめてヘコヘコと頭を下げながら店を出ていく。漸くモーニングの客が一段落して、ハボックは「はああ」とため息をついた。
「マスター、毎日これ、一人で切り盛りしてんの?」
 美味しいという評判ではあるものの、元々そんなに大きくない店は、普段マスターがのんびり一人でやっている。だが、たった一日、ほんの数時間いただけで、あまりに忙しい状況にハボックはうんざりして聞いた。
「まあ、朝はいつも忙しいんだけど、ね。今日は二割増しかなぁ」
「ふぅん、そうなんだ」
 そう言ってマスターはハボックを見つめる。増えた二割は明らかにハボックがいたせいだとマスターは踏んでいた。
(うちとしちゃ売り上げが増えて嬉しいけど……。大佐、怒るだろうなぁ)
 客引きに立っていたわけでもないのにどこでどうしてかぎつけてくるのか。ハイエナ並みの男どもの嗅覚に半ば呆れながら、マスターはロイにどう言い訳をしたものか、頭を悩ませるのだった。

「ハボックさん、朝は散々こき使っちゃったから後は奥で休んでていいよ」
 ランチタイムの客に備えて準備をしながらマスターが言う。洗った食器を拭いていたハボックは首を傾げて答えた。
「でも、朝あんなに忙しかったんなら昼も忙しいんじゃないの?食器洗いくらいならできるし、オレ、手伝うよ」
 そう言ってにっこりと笑うハボックに、マスターは「ははは」と笑う。
(でも、朝の事を考えるとハボックさんに手伝って貰うのは後が怖いんだけどなぁ)
 そう考えるマスターの脳裏に浮かぶのはロイの黒い瞳だ。なんとかハボックに思いとどまらせる方法はないだろうかと思案していると、ハボックが視線を落として言った。
「……やっぱ迷惑だよね。オレみたいな気色悪いのがいると店の売り上げにも響くだろうし。忙しいと余計な事考えなくて済んで、すっごい助かったんだけどっ」
 へへへとわざと明るく笑って見せたハボックは、次の瞬間くしゃりと顔を歪める。「ごめん」と呟いて店の奥へと引っ込もうとするハボックをマスターは慌てて引き留めた。
「迷惑なんて事ないよ、ハボックさん!むしろ朝はハボックさんがいてくれたおかげで大助かりだったんだ」
 そう言えばハボックが期待するようにマスターを見る。マスターはにっこりと笑うとハボックに言った。
「大変じゃなければ昼も手伝って貰っていいかな?」
「勿論っ!何でも言って、オレ、頑張るからっ!」
 パアアと顔を輝かせるハボックにマスターは内心ため息をつく。満面の笑みを浮かべたハボックはとても魅力的で、これから先の事を考えると頭痛を覚えずにはいられない。だが、押し潰されてしまいそうな不安を抱えながらも必死に明るく振る舞おうとするハボックを見ていれば、多少の無理は聞いてやりたいと思うのも確かで。
(まあ、大佐は怒るかもしれないけど、あたしが怒られればいいだけの話だし、ここなら危険な目に遭うことはないだろうし)
 そう思いながらテーブルを布巾で拭いているハボックの横顔を見る。
(それにしても、どうして気づかないのかねぇ……)
 朝の客達の中にも明らかにハボックに興味を抱いている連中がいた。端から見ていてもあからさまなその態度に、実際接しているハボックが気づかないのが不思議でならない。
(こんなだから大佐もほっとけないんだろうけど)
 そう考えてため息をついたマスターは時計を見上げて、慌てて下準備の続きにかかったのだった。

「ちょっとそこまで昼飯に行ってくるよ」
 執務室から出てきたロイが言う。
「あ、もしかしてマスターのとこ、行くんですか?」
 そう尋ねれば頷くロイにブレダは残念そうに言った。
「俺も行きたいんですけどねぇ、電話待ちなんですよ」
 もう一回よく見たいなぁ、と言うブレダにホークアイが言った。
「あら、じゃあ代わりに私が見てきてあげるわ」
「君も来るのか?中尉」
「いけませんか?」
 ギョッとするロイにホークアイがサラリと尋ねる。断る理由が咄嗟に浮かばず、ロイが何も言えないでいるうちにホークアイはさっさと支度を整えるとロイを促した。
「大佐」
「あ、ああ。じゃあ行ってくる」
「ハボによろしく」
 そう言って手を上げるハボックに手を振り返して、ロイはホークアイと連れだってランチがてらハボックの様子を見に向かったのだった。


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