幻想女神  第十一章


「おはようございます、大佐」
「ああ、おはよう」
 司令室の扉を開いて中に入れば既に席についていた部下たちが口々に挨拶を寄越す。それに返しながら執務室へ入ろうとしたロイは、大事なことを思い出して言った。
「ああそうだった。ハボックだがちょっと体調を崩していてな。暫く休ませる事にしたから」
「えっ、ハボの奴、病気なんですか?」
 ロイの言葉に驚いてブレダが言う。心配そうに向けられる幾つもの視線に、ロイは苦笑して言った。
「そんな心配するほどの事でもないから」
「でも、暫く休ませなきゃならないほど悪いんでしょう?」
「もしかして入院とかしてるんですか?」
 あの万年健康優良児のようなハボックが、と皆が心配するのを見てロイは僅かに首を傾げる。理由を話すべきか迷ったロイが瞬間口を噤んだ時、ホークアイが司令室に入ってきた。
「おはようございます……どうかしましたか?」
 朝の挨拶を口にしたホークアイはロイの顔を見てそう言う。ロイは副官の察しの良さに苦笑して言った。
「すまんがちょっと執務室の方へ来てくれるか?」
 ロイがそう言えばブレダ達が怪訝そうな顔をしつつ席を立つ。いつものメンバーが執務室に入ったのを見てロイが口を開こうとするより早く、ホークアイが見回して言った。
「ハボック少尉がまだ来てないようですが」
「ハボックなら体調不良で休みですよ、中尉」
 ホークアイの疑問を受けてブレダが答える。尋ねるようににロイを見つめる鳶色の瞳に苦笑してロイは言った。
「みんなに集まって貰ったのはそのハボックの事だ」
「ハボック少尉の?」
「やっぱりこうやってみんなに話さなきゃいけないほど悪いってことですね、大佐っ」
 すわと目を見開いて言う友人思いの男に落ち着けと手を振ってロイは椅子に腰を下ろす。一体なんなんだと見つめてくる部下達を見回してロイは口を開いた。
「ブレダ少尉、ファルマン准尉、フュリー曹長、二日ほど前に金髪の女性に声をかけられた事がなかったか?」
「金髪の女性、ですか?」
「そう、寸の合わない男物の服を着た女性だ」
 ハボックの話を聞く筈が突然そんな事を言われて、ブレダ達は顔を見合わせる。「金髪の女性?」と首を傾げている三人の中から、フュリーが「あっ」と声を上げた。
「ほら、あの人ですよ!僕たちの名前呼んで声をかけてきた美人がいたじゃないですか!僕たちが知らないって言ったら泣きそうな顔して逃げちゃった人!」
「あ……ああ!俺がぶつかった女の子な?」
「どこであったんだろう、ってあの後散々悩んだ女性のことですな!」
 ああ、あの人、と三人が三人とも頷く。だが、一体ロイがどうしてこんな質問をしたのか判らず、不思議そうな顔をしてブレダが言った。
「確かに会いました。見たこともない女性にいきなり名前で呼ばれて、どっか酔っぱらって入った先で会ったのかなって、三人で悩んでたんですよ」
 それが何か?と言う顔をする三人にロイは笑みを浮かべる。机の上に肘をついて、組んだ両手の上に顎を載せると言った。
「そいつはハボックだよ」
 その言葉に三人は咄嗟に反応できない。ポカンとしてロイの顔を見つめていたが、ほぼ同時に我に返ると一斉に騒ぎだした。
「ええっ?彼女がハボックってどういうことですかっ?」
「だって、あの人、女の人でしたよっ?」
「おっしゃる意味がまるで判りませんっ」
 ぎゃあぎゃあと口々に尋ねる声にロイは眉を顰めてわざとらしく耳を塞ぐ。その様子を見てホークアイがクスリと笑って言った。
「ずっと騒いでいたのでは大佐は説明できないようよ」
 そう言われて三人はピタリと口を噤む。それでも自分を見つめる目が「なんで?!」と喚いているようで、ロイは一つため息をついて言った。
「誰かファントム・レディという酒の事を聞いたことがあるか?」
「ファントム・レディ、ですか?」
 聞かれて部下達は顔を見合わせたが首を振る。期待はしていなかったもののやはりどこか落胆して、ロイは息を吐き出して言った。
「飲む人間によって味が変わるという薔薇色の酒だそうだ。ハボックが言うには小隊の連中と飲み歩いた夜、たまたま入ったバーで出されたその酒を飲んだら翌朝目が覚めて女性になっていたと言うんだ」
「えっ、じゃあ小隊の人達の中にもたくさん女性になっちゃった人がいるんですかっ?」
 驚いてそう聞くフュリーにロイが首を振る。
「飲む人間によって味が変わると言っただろう?ハボック以外の部下達は不味くてその酒が飲めなかったらしい。ハボックだけが甘くて旨いと感じて注がれた分を全部飲んだと言っていた」
「でも、飲むと性別が変わる酒なんてあるんでしょうか」
 ホークアイが尤も至極な事を口にする。うんうんと頷くブレダ達にロイは肩を竦めて言った。
「その酒が原因だとういう確証はない。だが、ハボックにはそれ以外心当たりはないと言うんだ」
「飲んだら女性になる酒、ですか……。そんな酒が本当にあるのなら滅多なところで酒なんて飲めませんな」
 ファルマンが眉を顰めて言えばブレダも嫌そうな顔をする。それに頷いたフュリーがふと思い出したように言った。
「あ、でもハボック少尉、すごい美人でしたよね!あんな美人の事を三人とも覚えてないなんて、どうしてだろうって言ったじゃないですか」
「そういやそんな話、したな」
 フュリーの言葉にブレダも数日前に会った女性と化したハボックの姿を思い浮かべる。寸の合わない男物を着ていてもその抜群のプロポーションと美貌は隠しようがなかった。
「あれ、アイツの理想の女性像なのかね」
「少尉の大好きなボインでしたな」
「美人でしたよねー。半泣きになったの見た時、僕、ドキッとしちゃいましたもん」
 それぞれにハボックの姿を思い浮かべて言う。ただ一人女性の姿のハボックを見た事のないホークアイが首を傾げて言った。
「それで?今ハボック少尉はどうしてるんですか?一人でアパートに?」
「いや、とても一人にはしておけなかったのでな、私の家に連れてきてある。今日は家で一人で待っているのも司令部に行くのも嫌だと言うからマスターのところに預けてあるが」
「なんだ、司令部に来りゃいいのに」
 そうすりゃ気も紛れるのに、というブレダにロイが言う。
「気味悪がられるから嫌なんだと」
 そう言うロイにブレダは一瞬押し黙り、それから眉を顰めて言った。
「もしかしてアイツ、自分がとびきりの美女だって事に気づいてなかったりします?」
「気づいてないどころか気色の悪い男おんなだと思ってるよ」
「えーっ、どうしてですかっ?だって鏡見たりするでしょう?」
 すっごい美人でしたよっ、と騒ぐフュリーにロイは苦笑する。
「嫌がって見ないからな、鏡を」
「と言うことは全く自覚なし、ですか?」
 危険極まりないと顔を見合わせる男達にロイも頷く。そんなロイに向かってホークアイが尋ねた。
「それで?これからどうなさるおつもりですか?大佐」
 その言葉に皆がロイの顔を見る。ロイは順繰りに見つめ返すと最後にホークアイを見て言った。
「その事なんだが、中尉。ハボックは一人で情報を集めて何とかするつもりでいたが、あのなりのハボックを一人でうろつかせるのは心配なんだ」
「あー、確かにハボの奴、一人でやらせるのは危ないかもしれないですね。自覚ないんでしょう?」
 ロイの言葉に幼い頃からハボックをよく知るブレダが言う。ロイは顔を顰めてブレダに頷いた。
「言うとおりだよ、少尉。自分が飢えた男どもの目にどう映っているかも判っていなけりゃ、自分がどれほど非力な存在になっているかも判ってない。気をつけるとは言うが、とても一人でうろつかせる気にはなれん。実際危ない目に会ってるからな」
「えっ、少尉に何かあったんですか?」
 フュリーが目を見開いて尋ねる。
「情報を集めようとしてあまり治安のよくない界隈に行った挙げ句ゴロツキどもにな」
「ヤられたんですかッ?」
「縁起でもない事を言うな。すんでのところで私が助けたよ」
 ギョッとして言うブレダにロイが思い切り顔を顰めて言う。ホッと息を吐くブレダを見ながらホークアイが言った。
「少尉と一緒に探すおつもりですか?大佐」
「駄目だろうか?」
 運のいいことに今司令部で差し迫った事件は抱えていない筈だ。じっと見つめてくる黒曜石の瞳にホークアイはため息をついて言った。
「正直二人も抜けるのは困るのですが」
「中尉」
「でも、少尉が元に戻らなければもっと困りますわね」
 色々な面で、と言うホークアイにロイは期待を込めて副官を見つめる。
「仕方ありません、特別に取り計らいましょう。ただし」
 と、一呼吸おいてホークアイは指を一本出した。
「一週間です。それ以上は無理ですから。それと緊急の案件が起きました時は」
「判っている、ありがとう、中尉」
 にっこりと極上の笑みを見せるロイに、ホークアイはやれやれとばかりにため息をついたのだった。


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