辿り着くはパナケイアの空  第九章


「うわぁッ、隊長ッ、たんま、たんまッッ!!」
「えっ?……あ」
 オレは間近で聞こえたマイクの悲鳴に今まさに撃ち込もうとしていた拳を止める。目の前にはオレに襟首を掴まれてヒクヒクと唇の端をひきつらせたマイクの顔があった。
「隊長っ、俺のこと本気で殺す気ですかッ?」
 本気でそう心配しているらしいマイクの顔をオレはまじまじと見つめる。オレは一つ瞬くと掴んでいたマイクの襟首をパッと離した。
「ごめん。ぼーっとしてた」
「組み手中にぼーっとせんで下さいッ」
 そうすれば重力に引かれて地面にヘたり込んだマイクが言う。オレが“わりぃ”と手を差し伸べてマイクが立ち上がるのに手を貸せば背後から軍曹の声が聞こえた。
「どうしたんです?身が入ってませんな、隊長」
「や、ちょっと」
 年嵩の副官は眉を寄せて言う。ポリポリと頭を掻いてオレが決まり悪げに首を竦めれば、軍曹はため息をついて言った。
「そんな状態の訓練はみにならないどころか危険です」
「……ごめん」
 軍曹の言うことは尤もで、周りを見れば他の連中も呆れたような顔をしてオレを見ている。思わず“うー”と唸れば軍曹が言った。
「どうします?一休みして気持ちを入れ替えて続けますか?それとも今日はここまでにします?」
「……一息入れて続ける」
「ではそうしましょう。おい、10分休憩だ!」
 軍曹の声に周りから「うーす」だの「やれやれ」だのと声が上がる。オレがドサリと地面に座り込めば軍曹がスポーツドリンクのボトルを差し出した。
「サンキュ」
 それを受け取ってキャップを開けるとグビグビと飲む。ボトルの半分ほども一気に飲めば体の熱気が抜ける気がした。
「何かあったんですか?隊長」
 隣に腰を下ろして軍曹が聞いてくる。オレは軍曹の方を見もせずに“なんにもない”と答えた。
 そう答えはしたものの本当はなんにもないなんて事はなかった。オレが訓練に身が入らない原因はよく判っている。突然大佐に飲みに誘われたからだ。正直今まで上司と飲みに出かけたことなどない。慰労会で大勢で出かけた事ならあったけれど、こんな風に個人的に誘われたのは初めてだ。なんで?と考え出したら止まらなくなってしまって、組み手をしていたのを忘れていた。それでも体はみっちり仕込まれて覚えているから反射的に撃ち込まれる突きをかわし、蹴りを受け流していたようだ。
(無意識っていうのが一番能力を発揮できたりして)
 なんて事をぼんやり考えていたら10分なんて瞬く間に過ぎて、オレは両手でパンッと頬を叩いて気を入れると、今度こそと訓練に臨んだのだった。


「げーっ、もうこんな時間じゃん!」
 オレはガリガリと書類に書き込みながらそう叫ぶ。大佐と約束した六時までにはもうあと五分もなかった。
「終わんねーッ」
 二人きりだし仕事が終わっていないとなれば時間をずらして貰うのは簡単だ。だけどそうするのは何だか凄く嫌で、オレは死に物狂いでペンを走らせた。
「あっ、間違えたッ」
 急いでるときに限ってしょうもない綴りのミスなんてのをしてしまう。オレは思い切り舌打ちして修正液を間違えた字の上に塗ると少しでも早く乾くようにフウフウと息を吹きかけた。
「早く乾けっての」
 そう呟いて塗った箇所を指先で触れば指が白く汚れる。うっすらと字が透けて見えるようになってしまって、キーッとなったオレがもう一度修正液を塗るのをやめてグリグリと太い字で書き込んだ時、ガチャリと執務室の扉が開いて大佐が顔を出した。
「あ」
(やべぇ、大佐、もう仕事終わったんだ。オレ、終わってねぇよ)
 そんな胸の内を思い切り表情に載せてしまってから、今度はそれをやべぇと思う。それでも“仕事終わってないから待って下さい”と言わないといけないだろうとオレが口を開こうとするより早く、大佐が言った。
「すまん、ハボック。仕事が終わらん。あと三十分待ってくれ」
「え…?あっ、アイ・サー!」
 咄嗟の事に一瞬理解がおっつかず、オレは慌てて返事を返す。それに大佐はニッと笑って頷くと執務室に引っ込んでしまった。
(よかった、大佐もまだ終わってなかったんだ)
 大佐を待たせずに済んでオレはホッと息を吐く。幸運にも与えられた三十分の内に仕事を済ませようとこれまで以上の猛スピードで書類を書き込んでいった。


「大佐?」
 なんとか二十五分で仕事を終えて残りの五分で帰り支度をすませたオレは、ノックした執務室の扉を細く開く。そっと中を覗けば大佐が窓辺に立って外を眺めているのが目に入った。窓から差し込むオレンジ色の夕日が大佐の全身を紅く染めている。まるで焔の神の化身みたいなその姿を言葉もなく見つめるオレに大佐が振り向いた。
「もう終わったのか?」
 そう言って薄く笑みを剥く唇をオレはぼんやりと見つめる。大佐ってカッコいいなぁ、そんな言葉が頭に浮かんだ時。
「おい、ハボック」
「うわッ」
 いきなり目の前に広がった黒曜石にオレは思わず飛び上がる。そうすれば大佐が呆れたようにオレを見て言った。
「なにをぼーっとしているんだ?」
「えっ、いや、そのっ」
 大佐にみとれてましたとは流石に言えずにオレは言葉を濁す。何でもいい、適当なこと言わなくちゃと視線を泳がせたオレは綺麗に片づいた机を見て言った。
「えと……大佐はもう仕事終わったんスか?」
「ん?……ああ、まあな」
 そう言って笑う顔ときちんと片づいた机を見てオレはふと気がつく。仕事が終わらないと言ったのは単なる口実で、実際はオレが気兼ねなく仕事を済ませられるようにしてくれたのだ。そう気がついたもののそれを口に出して礼を言うべきではないのだろう。オレはにっこりと笑うと見つめてくる黒曜石を見返して言った。
「お待たせしてすんません。もういつでもオッケーっスから」
「そうか、じゃあ行こうか」
 オレに笑い返してそう言う大佐と連れだって、オレは司令部を後にしたのだった。


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