辿り着くはパナケイアの空  第五十五章


「イテテ……」
 顔を洗おうとしてオレは腰を押さえて洗面台に縋りつく。暫くじっとしていると少し痛みが引いて動けるようになり、オレはため息をついて顔を上げた。その途端、鏡に映る自分の顔を見てギョッとする。目尻がほんのりと染まった顔は、自分で見てもどこか妙な色香が感じられて、オレは慌てて目を逸らすと勢いよく出した水でザバザバと顔を洗った。


「おはようございます」
「おう」
「おはよう、ハボック」
 下に降りればもう大佐も中佐も起きてきていた。ダイニングテーブルにはもう焼きたてのパンにベーコンエッグとサラダという、簡単ながらもきちんとした朝食メニューが並んでいて、オレはキッチンから出てきた大佐の手からコーヒーのポットを慌てて受け取った。
「すんません、寝坊しちゃって」
「構わん。疲れただろう?」
「まあ……でも、それは大佐も同じだし」
 オレは言いながらポットのコーヒーを注ぐ。カップを中佐の前に置いたオレは、眼鏡の奥の常盤色の瞳が何か言いたげな光を浮かべているのに気づいた。
「なんスか?中佐」
「……いや、別に」
 中佐はそう言うとカップを手に取りコーヒーを啜る。一体何なんだと思ったけど、聞いたところで答えてくれるとも思えなかったので、オレは自分にあてがわれた席に腰を下ろそうとした。
「……ィッ」
 その途端、ズキンと痛みが走ってオレは中腰のまま固まる。何度か息を吐き出して呼吸を整えてからそろそろと腰を下ろしたオレが顔を上げれば、心配そうな顔の大佐となにやら言いたげな中佐とがじっとオレを見ている事に気づいた。
「……なん、スか?」
 思わず眉間に皺を寄せて尋ねれば、二人して目を逸らす。一体なんなんだと益々眉間の皺を深めれば、中佐が言った。
「少尉、お前、今日はここで休んでろ」
「は?なんスか、突然」
 どうしたらそんな言葉が出てくるんだ。大体あと少し頑張れば大佐の無罪が証明されるって言うときに、のんびり休んでなんていられはずがない。オレが険しい表情でそう言えば、中佐はオレではなく大佐を睨んだ。
「ロイ」
「すまん、悪かった」
 中佐が大佐を怒る理由も、大佐が言い訳もせず謝る理由も判らない。二人の顔を見比べて理由を見つけだそうとしていれば中佐が言った。
「夕べは静かな夜だったからな。ものを考えるにはいい夜だったんだが、物音もよく聞こえてなぁ」
「え?」
「もう、隣の部屋の声なんてバッチリ」
 天井の方を見ながらそう言う中佐の言葉の意味が、まだ目覚めて間もなく血の巡りの悪い脳味噌に漸く達する。その途端、カアアッと顔が燃えるように熱くなって、オレは顔を上げていられずに赤くなった顔を腕で覆ってテーブルに突っ伏した。
「しっ、信じらんねぇッ!聞いてたなんてッッ!!」
「馬鹿言え、聞こえたんだッ!!」
「どっちだって変わんないっス!!」
 そりゃ途中から声を抑えるのなんて忘れちゃったけど、まさか全部聞かれてたなんて。もう恥ずかしくて恥ずかしくて半泣きになって突っ伏すオレの髪を中佐がくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「あー、お前は悪くない。あんな声出させるロイが悪い」
「大佐を悪く言うなっ、つか、あんな声って……ッ」
 どんな事にしろ大佐を悪く言われたくなくて、思わず顔を上げて言ったものの、続く中佐の言葉に二の句が継げなくなる。真っ赤になって睨みつけるオレに中佐は苦笑いして言った。
「悪かった。でも、本当に今日は休め」
「ッ、休みませんッ」
「少尉」
「嫌っス、あと少しなのに!」
 最後まできちんと成し遂げたい。オレがそう言えば中佐はやれやれとため息をついた。
「まったく、あとは俺に任せようとは思わねぇのか?そんなに信頼出来ないのかよ」
「そうじゃなくてっ」
 誰よりも大事な大佐の事を人任せにしたくない。そう言うオレに中佐は一瞬眼鏡の奥の目を見開く。それからオレの髪を思い切りくしゃくしゃと掻き混ぜた。
「お前、ロイに惚れすぎだ。その半分も俺に惚れてみやがれ」
「えーっ、オレ、黒い目の方が好きっスもん」
「んだとっ、コイツ!」
「わわっ、ちょっと中佐!」
 オレの頭を両手で押さえつけるようにして髪をくしゃくしゃにする中佐を、大佐が複雑な表情で見つめていた。


「おい、運転して大丈夫なのか?」
「平気だって言ってるっしょ」
 後部座席から中佐が心配そうに身を乗り出して聞いてくる。朝起きたときはちょっと辛かったけど、メシ食って時間がたったらもう随分とマシになって運転に支障があるとは思えなかった。
「ぐちゃぐちゃ煩いっスよ、中佐。乗りたくなけりゃどうぞ歩いていって下さい」
 オレはそう言ってハンドルを握る。どうするんだと視線で尋ねれば、中佐は肩を竦めてオレを促した。
「じゃ、行きます」
 それに頷いてオレはアクセルを踏み込む。中佐が心配するようなこともなくて、車はスムーズに司令部へとたどり着いた。大佐と中佐を先に行かせ、車を警備兵に任せたオレは急いで小隊の詰め所に向かう。ずっとほったらかしだった部下たちに指示を与えるためと、なにより先日の市内での演習中での証言を公聴会で述べて貰う人選のためだ。オレは久しぶりの詰め所の扉を勢いよく開ける。そうすれば中にいた部下たちが一斉にオレを見た。
「おはようっ!ずっとほったらかしにしてて悪かった。詳しい話はまたゆっくりするとして、今日はこれからの事とそれから先日の演習中の証言を誰かに───」
 詰め所に入るなり一気にそこまで言ったオレは、部下たちの様子がおかしいことに気づく。何か変なことを言っただろうか、それとも自分の小隊にろくに指示も与えず放置していた上官など、もう従う気にもなれないのだろうか。そんな事を考えながら部下たちの顔を見渡すオレに、軍曹が言った。
「隊長、とりあえずこの先二、三日の事についてはあたしから指示しておきます。それと、証言する隊員も選んでおきますから、隊長はマスタング大佐とヒューズ中佐のところへ行って下さい」
「そ、そう?なんか悪いな、軍曹」
「いえいえ、構いませんよ。さ、早く行って行って」
 そう言いながら背中を押す軍曹に追い出されるようにして詰め所を出れば、行ってらっしゃいと手を振る軍曹の向こうに、何故だが赤い顔でぐったりとヘタリこむ部下たちの姿が見えた。


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