辿り着くはパナケイアの空  第四十一章


 冷たいものが喉の奥に流れ込んでくる。その心地よい冷たさに意識を引き戻されて目を開ければすぐ近くに大佐の顔があった。
「……いさ?」
「気がついたか、ハボック」
 オレの意識が戻ったことに気づいて大佐がホッとしたように言って体を離す。大佐が体を起こしたことで周りが見えて、オレは自分がログハウスのベッドに寝ていることに気づいた。
「気分は?もっと水を飲むか?」
 そう言って大佐は手にしたグラスを示す。さっきの冷たいものは水だったのかと思いながら、オレは小さく頷いた。
 大佐はグラスを持っていない方の手でオレの体を起こそうとする。だが、まだ力の入らないオレの体は大佐の思うようにはいかなくて、オレは焦れたように言った。
「いい……このまま飲ませて」
「零れるぞ」
 ベッドに横たわったままグラスの水を飲もうとすれば、水の大半は零れてしまうかもしれない。でも、さっきの冷たい水の心地よさが酷く恋しくて、オレは子供のように水を強請った。
 大佐はそんなオレに一つため息をつくとオレの唇ではなく自分のそれにグラスをつける。そのままグラスの水を口に含んだ大佐が顔を近づけてきた。
「……ん…」
 唇が合わさったと思うと水が流れ込んでくる。水を求めて舌を差し出せば、大佐の舌が絡みついてきた。水の冷たさを纏うそれを夢中になって味わおうとすると大佐が体を引く。手の甲で唇を拭う大佐を見上げて、オレは力の入らない手を伸ばした。
「たいさ……」
 欲しいのは水なのか、それとも大佐なのか、判らないままオレは大佐を見上げる。大佐はオレをじっと見つめていたが、グラスをベッドサイドのテーブルにおいて立ち上がり背を向けた。
「たいさ……っ?」
 もしかしてまたどこかに行ってしまうのだろうか。不意に不安が沸き上がってオレは必死に体を起こす。ベッドから起きあがろうとしたオレは、アッと思った時にはブランケットごとベッドから落っこちていた。
「ハボック?!」
 ドサリという鈍い音に振り向いた大佐がオレを助け起こそうとして腕を伸ばしてくる。その腕を引いてオレは無我夢中で大佐にしがみついた。
「ヤダ……もうどこにも行かないでっ」
 やっと見つけたのだ、もうどこにも行かないで欲しい。今度はもう失敗しない、絶対に大佐のことを守るからとオレは必死に訴える。オレは大佐のシャツを握り締め、黒曜石の瞳を見上げた。
「好き……好きっス、大佐……」
 大好きな黒曜石を目にした途端、不意にオレの唇から言葉が零れる。一度口にしてしまえばもう抑えることなんて出来なかった。
「大佐が好きっス……こんなこと言ったら迷惑かもしれないけど……っ、でもオレ、大佐が好きなんです」
たぶん、大佐の焔を初めて見たあの時から。オレは大佐が好きだった。あの美しい焔が、あの焔を生み出す大佐が、誰よりも何よりも好きなのだ。
「ハボック……」
 大佐が信じられないと言うようにオレを見る。オレは見開く黒曜石を見つめて言葉を続けた。
「あの夜……大佐に抱かれて……大佐の気持ちがオレにないのは判ってるっス……だから何かして欲しいとかじゃない。ただ、大佐の側で大佐の事、守らせて……」
 あの夜、大佐は何も答えてはくれなかった。あれこそが答えなのだとオレは思う。だから何も求めない。ただ大佐の側で大佐のことを守る事を赦してもらえるならそれだけで。
「お前……」
 目を見開いてオレを見つめる大佐にオレは笑いかける。漸く力が戻ってきた足を踏ん張ってオレはゆっくりと立ち上がった。
「オレが側にいるのが気持ち悪いなら陰からでもいい、オレに大佐のこと、守らせてください。それ以外なにも望んだりしないっスから」
 何もいらない。大佐を守ることだけがオレの望みなのだから。そう言うオレを黒曜石の瞳が食い入るように見つめてくる。何も言ってくれない大佐がとても不安ではあったけれど、オレは何とか笑みを浮かべながら言った。
「戻りましょう、大佐。大佐の事ならヒューズ中佐がちゃんとしてくれる筈っス。大佐が陥れられた事、証明してくれる証人も探してありますから。……その、ちょっとソイツらの話、聞いて貰わなきゃだけど、悪い奴らじゃない。アメストリスの事、一番に考えてる奴らなんです」
 証人になる条件を大佐の了解を得ずに勝手に決めてしまったけれど、大佐なら判ってくれるだろう。
 オレは大佐を促して外へ行こうとする。だが、伸びてきた大佐の手がオレを引き留めた。
「大佐?」
 なにか拙い事を言っただろうか。まだ何か説明が足りないだろうか。オレは尋ねるように大佐を見る。そうすれば見返してくる瞳の苛烈さに、オレは耐えかねて目を閉じた。
「ぅわっ?」
 いきなり腕を引かれてオレはたたらを踏む。閉じた目を開ければ大佐の顔が間近にあった。
「大───」
 大佐の事を呼ぼうとしてオレは呼ぶことが出来なかった。言いかけた言葉は大佐の唇に飲み込まれ、気がつけば焦点が合わないほど近くに大佐の顔があって。
(……な、に?)
 背中に回った大佐の手がオレの体を引き寄せる。そうすれば一層深く唇が合わさってオレは目を見開いた。
 大佐が、オレに、キスしてた。
 さっきの水を飲ませてくれた時とは意味合いの違う、キス。大佐の舌が潜り込んできたと思うとオレの舌を絡めとる。深く深く貪るようなキスに肺の中の空気まで吸い取られたみたいで、目の前が暗くなってガクンと膝が折れた。
「好きだ、ハボック」
 大佐にしがみつくようにして体を支えるオレの耳に吹き込まれる大佐の声。ポカンとして大佐を見上げれば、大佐がもう一度言った。
「お前が好きだ、ハボック。好きなんだ、もうずっと」
大佐の言っている言葉の意味がすんなりと頭に入ってこない。ただ呆けたように見つめていれば大佐が焦れたように繰り返した。
「好きだ、ハボック……言っている意味が判ってるか?」
「判んねぇっス」
 聞くから素直に答えれば大佐が盛大に顔を顰める。だけど、本当にピンとこない。大佐が、オレを、好き?
「ったく」
 大佐は苛々と言ったと思うとオレの体をベッドに押し倒す。上から真っ直ぐにオレを見下ろして言った。
「お前が好きだ、ハボック。好きで好きで堪らなかった。あの夜も……あんなやり方は卑怯だと判っていたが自分を抑えきれなかった。お前が欲しくて、お前の全てを自分のものにしたくて強引にお前を抱いた。そのくせ気持ちを口にして拒否されるのが怖くて何も言えなかった」
「たいさ」
「今も……私は相当卑怯者だな。お前が私を好きだと言うのを聞いてこうして想いを口にしている。でも……あの時お前に拒まれたのはお前を無理矢理抱いた報いだと思っていたから、だから私は、───ッ?」
 腕を伸ばして大佐を引き寄せ、辛そうに言葉を吐き出す唇をオレは塞ぐ。もう、それ以上言わなくていい。やっと判ったから、だから。
「好き……大佐が好きっス」
「ハボック」
「……好き」
 囁いて口づける、何度も何度も。そうすれば。
「私もお前が好きだ……」
 口づけの合間に降ってくる大佐の声が、何よりもなによりも嬉しかった。


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