辿り着くはパナケイアの空  第三十章


 気を失っていたのは時間にしてはそんなに長い時間ではなかったのだろう。下肢に触れる感触にフッと意識が戻ったオレがぼんやりと視線を上げれば、大佐が地面に座り込んだオレの乱れた服を整えてくれていた。
「……」
 大佐をじっと見つめていればオレが気がついた事に気づいた大佐と目があう。大佐は暫く何も言わずにオレを見ていたが、やがてポツリと呟くように言った。
「すまない」
「ッッ?!」
 大佐はそれだけ言うと目を逸らしてオレの上着のボタンを留める。それが終われば大佐は行ってしまうのだと本能的に悟ったオレは咄嗟にボタンにかかった大佐の手を掴んだ。
「っ!」
 ハッとして顔を上げた大佐の黒曜石と視線が合う。オレはひりつく喉に何度も唾を飲み込んで口を開いた。
「なんで…謝んの……?謝ってなんか欲しくねぇっス……っ」
 オレが聞きたいのは謝罪の言葉なんかじゃない。縋るように見つめれば黙り込んでいた大佐が震える唇を開く。
「ハボック、私は」
 なに?早く言ってよ。でないともうおかしくなってしまいそうだ。
「私は」
 続けて大佐が何か言おうとした丁度その時。
「おっと!危ねぇな、なにやってんだ、そんなところで」
 バンッと勢いよく店の裏口が開いてオレ達は文字通り飛び上がった。酒瓶の入ったケースを抱えて出てきた従業員の男が既に並べたあった他のケースの上に手にしたそれを積み上げるとオレ達をじろじろと見る。
「なんだ、酔って具合でも悪くなったんか?水持ってきてやろうか?」
「……い、いや。大丈夫だ、もう行くから」
「そうか?飲み過ぎにゃ気をつけろよ」
 大佐の言葉に男は笑って頷くと店の中へ戻っていく。バタンと扉が閉まると後には気まずい雰囲気だけが残った。大佐はオレに視線を戻すとおずおずと手を伸ばしてくる。でもその手が触れる寸前、大佐は伸ばした手をギュッと握ったかと思うとスッと立ち上がり、オレに背を向けて足早に路地の出口へと歩き出した。
「大……佐ッ」
 行っちまう?嘘でしょう、オレまだ何も聞いてないのに。
 出ない声を振り絞って必死に大佐を呼んだけど、掠れた声が届いたのか届かなかったのか、大佐は振り向きも足を止める事もしなかった。「教える」と言った理由を最後まで口にする事のないまま大佐の背が曲がり角の向こうに消えた時、オレの頬を涙が一筋零れて落ちた。


 その後は最悪だった。軋む体を叱咤して何とか立ち上がり歩きだしたものの、強引に受け入れさせられた後孔はズキズキと痛み、一歩歩く度脳天を突き抜ける痛みとそこから溢れ出す生暖かい液体による不快感をオレにもたらした。それでもどうにかアパートに辿り着くと最後の力を振り絞って階段を上がる。鍵を開けて中に入った途端、倒れ込んだオレはそのまま気を失ってしまった。
 次に目が覚めたのは明け方近くになってからだった。腹に鈍い痛みを感じて意識が浮上した途端、鈍い痛みは激しい腹痛にとって代わりオレはトイレに駆け込む羽目になった。何度もトイレとベッドを往復して、少し痛みが落ち着いてきた頃にはぐったりと疲れきってしまっていた。司令部に行く気力も体力もなく、仕方なく休むと連絡を入れる。電話に出たフュリーが心配して色々言ってくれたけどそれに答える元気もなく受話器を置いた。
 鈍く痛む腹とギシギシと軋む体と、なによりあらぬ所から湧き上がる痛みが夕べの事を鮮明に蘇らせる。「すまない」とだけ残して立ち去った大佐の後ろ姿が脳裏に浮かべば心がズタズタに切り裂かれて、オレはベッドの中でただ涙を流し続けた。


 結局、翌日もベッドから起き上がれず漸く司令部に顔を出した時には大佐は中尉を連れて南方に出張に出掛けて留守だった。元々予定ではオレが同行する筈だっけど体調不良で欠勤した部下を護衛官として連れて行くのは心許なかったのかもしれない。それとも単にオレと顔を合わせたくなかっただけなのか。そっちの方が正解な気がして、オレは主のいない執務室の扉をそっと見つめた。
大佐が帰ってきたらその口からあの夜聞けなかった理由を聞けるだろうか。
『ハボック、私は』
 あの言葉の続きをどうしても聞きたい。
 オレはただ祈るようにそれを願い続けた。


「ハボ、これお前宛だ」
 ブレダがそう言ってオレに大判の封筒を投げて寄越す。裏を返して差出人を確かめれば、そこには記された見覚えのない名前にオレは眉を顰めた。
「誰だ……?」
 そう呟いて封筒の丈夫を指で千切る。中の書類を少しだけ引っ張りだしたオレは、そこに並ぶ文字に僅かに目を見開いたものの何事もなかったように書類を封筒の中に戻した。
「ちょっと煙草買ってくる」
「おう」
 オレはそう言って封筒を手に司令室を出る。足早に司令部の建物を出ると建物の裏手に回った。辺りに人がいないのを確かめてから改めて書類を引き出す。オレに指示を与える小さなメモがついたそれは、大佐の名前で出された数種類の命令書と軍に反感を抱いている学生団体の幹部への手紙、それと銀行の振込書の写しだった。
「大佐がクーデターを計画してる事にする気なんだ……」
 恐らくオレに話を持ちかけるずっと前から少しずつ少しずつあちこちに根回ししてきたに違いなかった。アメストリスの行く末を憂える学生達に、きっと大佐の使いだと名乗る人物がコンタクトを取り資金援助だと言って大金を与えその純粋な愛国心に油を注いできたのだろう。資金を得た学生達は今頃自分達こそが牽引役となってアメストリスを正しい道へと導き、自らを犠牲にしてもアメストリスを軍部の横暴から救うべく着々と準備を進めているのだろう。熱烈な愛国者というのがどれほど怖ろしい力を秘めているか、たかが素人の集団と侮ってはいけないと言うことはよく判っていた。
 同封されていた命令書はオレとオレの小隊に対するものだった。訓練の形式をとってはいるが、市街地を想定したそれは明らかに学生達の動きに連動させたもので、大佐が直属の部隊を進軍させて公然と反乱を企てていると見せかけるつもりなのだろう。
「これを大佐の書類に紛れ込ませとけって……?」
 大佐が不在な今、書類を紛れ込ませるのは簡単だろう。だがそうすれば事態は大きく動き出す。今はもう、あの夜のことを思い悩む時間などなく、オレは怖ろしい悪意から大佐を守るために全てを賭けて挑まなければならなかった。


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