辿り着くはパナケイアの空  第二十六章


「大佐、この書類にサインください」
 いつものようにノックもそこそこに執務室へはいるとオレは大佐に書類を差し出す。大佐は受け取ったそれにさっと目を通しサインを認めた。
「三ページ目に誤字がある。それだけ直しておけよ」
「えっ?」
 慌てて書類をめくって目を通すがどこにあるか判らない。チラリと視線を向けるオレに、大佐はため息をついて手を伸ばした。
「寄越せ」
 そう言う大佐の手に書類を渡せば大佐が目指すページを開いて修正液で誤字を消す。白く塗り潰されたそのままで、大佐はオレに書類を差し出した。
「書くのは自分で書け」
「……ありがとうございます」
 オレはそれだけ言って書類を手に執務室を出る。自席に腰を下ろすと塗り潰されて文字のなくなった場所をじっと見つめた。
 あの日、大佐との間にあったことを結局オレは大佐に聞く事が出来なかった。そして大佐も何事もなかったように全くオレに対する態度が変わらなかった。まるで塗り潰した文字のように、あの夜にあった事は二人の間でなかったこととして処理されてしまっていた。でも。
(キス……したじゃん)
 大佐に確かめる事は出来なかったけれど、むしろそのせいで大佐とキスした事実はオレの中で確固たるものになっていた。そしてそれから気づかされた自分の感情も。
(なんで……?)
 聞きたい事はいっぱいあるけど口には出来なかった。自分の中にある気づいたばかりの小さな熱い塊を、自分自身どうすればいいのかまだ判らなかったし、それになにより今はやらなければならない大切な事がある。
(全部終わったら……そうしたら聞けるかな)
 オレは執務室の扉を見つめてそっと息を吐いた。


 ハリソン大佐の方は、すぐにはなにも動きはなかった。それでもオレは時折心猿亭に通ってはアーレン達と酒を飲み交わしていた。酒を飲みながらくだらない日々の愚痴を零す。その間に少しずつ大佐への不満を織り交ぜて。そうして向こうの出方を待っていたある日、オレの元にジェンナー少佐から電話がかかってきた。
『貴官を一度食事に招待したいと思ってね、ハボック少尉』
 と、ジェンナー少佐はもったいぶった口調で言う。
『一週間後、ホテル・ペイガンのオクトパスに来てくれたまえ』
 オレの都合なんて聞きもせず、一方的に言ってジェンナー少佐は電話を切ってしまった。オレが切れた電話をじっと見つめていると向かいの席から心配そうな声が聞こえた。
「どうしたよ、ハボ。なんか問題でもあったか?」
 そう言われてオレが顔を上げればブレダがオレを見ている。その向こうに執務室に入ろうとした大佐が肩越しに振り向いてオレを見つめているのが目に入った。
「いや、別になんでもねぇよ。ただの業務連絡」
 にっこりと笑って答えるオレにブレダも笑みを浮かべる。
「なんだ、珍しく真面目な顔してるから何事かあったのかと思ったぜ」
「なんだよ、珍しくって。オレはいつでも真面目だろ?」
 言ってブレダに向かって拳を突き出せば「そうだったか?」と返ってくる。パタンと扉が閉まる音に視線を向けるともう大佐の姿はなかった。
 オレがハリソン大佐と個人的に会うのを知ったら、大佐はなんというだろうか。
 ほんの少し罪悪感を感じながら、オレはブレダと話を続けていた。


 ホテル・ペイガンはイーストシティでも1、2を争う高級ホテルだ。正直そんなところに着ていく服なんて持っていなくて、オレは仕方なしに軍服を着てホテルに向かった。
 レストランの入口で名前を告げれば、ベテランの案内係は表情ひとつ変えずにオレを奥へと促す。それでもその瞳に浮かぶ隠しきれない皮肉な色に、オレは本気で帰りたくなった。
(わざわざこんなところに呼びつけるなんて、絶対嫌味だ)
 オレは内心そう思いながら案内係の後について個室に入る。約束の時間より早く来たにも関わらず、ハリソン大佐はジェンナー少佐と共にもう個室で待っていた。
「わざわざこんなところまで呼びつけてすまなかったな、少尉」
「とんでもありません、サー!お招き頂いて光栄です」
 椅子に深く腰掛けうっすらと笑みを浮かべたハリソン大佐がオレを見上げて言う。ピッとお手本のような敬礼をして答えるオレをハリソン大佐は値踏みするようにジロジロと見た。
「軍服を着てきたか、感心だな」
「こんなところに着てくるような服を持ち合わせてなくて」
 言われてつい本当の事を言ってしまってからオレは慌てて手のひらで口を覆う。そんなオレを見てハリソン大佐はククッと笑った。
「少尉は正直な人間のようだ」
 どう答えていいのか返答に詰まるオレにハリソン大佐は椅子を勧める。オレが礼を言って腰を下ろせば、控えていたウェイターが待ちかねたようにやってきてハリソン大佐にワインのメニューを見せた。少ししてワインが来るとハリソン大佐に合わせてグラスを掲げ口を付ける。彼が選んだワインはやけに渋みばかりが口に残って旨いとは思えなかった。
「どうだね、このワインは?」
「こんな上等なワイン、飲んだことないです」
 それでも感激したような顔でそう答えればハリソン大佐は満足そうに頷く。
「これはこの店でも滅多に入らない逸品でね。少尉は運がいい」
 こういう類の事を言う奴は大嫌いだ。オレは内心そう思いながらも顔には微塵も出さずに礼を言う。その後はあらかじめ頼んであったのだろう、適度な間をおいて出てくる料理を口にしながらオレはハリソン大佐が向けてくる話に当たり障りのない受け答えを返した。その間ジェンナー少佐は殆ど口を挟まず、探るようにオレを見ている。そうやってデザートの皿が出てくる頃になって、口元をナフキンで拭ったハリソン大佐はオレを真っ直ぐに見つめて言った。
「今日、貴官をここへ呼んだのは内密に話したい事があったからだ」
 その言葉に知らず体が緊張する。問い返すように見返すオレに、ハリソン大佐はゆっくりと口を開いた。


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