辿り着くはパナケイアの空  第二十五章


 遠くで水が流れる音が聞こえる。その音に眠りの淵から引き戻されたオレはゆっくりと目を開けた。
「…………」
 見上げた先に見慣れない天井。オレはぼんやりとそれを見上げていたが、漸く頭が目覚めてきてガバッと起き上がった。
「え……?ここどこっ?!」
 キョロキョロと周りを見回せばそこがどこかのリビングだと判る。オレは大きなソファーの上でブランケットをかけて眠っていたらしい。どうして自分がこんなところにいるのかさっぱり判らず焦るオレの耳に、聞き慣れた声が聞こえた。
「目が覚めたか、ハボック」
 声がした方を向けば大佐がリビングに入ってくる。
「えっ?なんで大佐がいるんスかッ?!」
 突然現れた大佐にびっくりしてそう言えば、大佐が眉を顰めて答えた。
「なんでって……ここは私の家だからな」
「大佐のっ?」
 言われてきょろきょろと見回すオレに大佐がため息をつく。
「お前、もしかして夕べのこと覚えてないのか?」
「夕べのこと?」
 夕べ……夕べはハリソン大佐達の飲み会の席に出て、話をして……大佐を悪く言う、そのあまりの言いように腹が立ってアパートに帰ってソファーに八つ当たりして……それから?
「お前……」
 どうしたっけと必死になって記憶を辿るオレを大佐が呆れたように見る。決して酔っぱらっていた訳じゃないのにストンと記憶がぬけ落ちてしまっている事に気づいて、オレは顔を赤らめた。
「すんません……オレ、もしかして大佐に迷惑かけました?」
 覚えていないとはいえもしそうだったら申し訳なさすぎる。ソファーの上で身を縮めて尋ねるオレを見ていた大佐は、ひとつ息を吐いて言った。
「別に迷惑なんてかけられてないよ。気にするな」
「大佐」
 気にするなと言われても無理だ。縋るように見上げるオレに、大佐はクスリと笑うとオレの髪をクシャリとかき混ぜて言った。
「まあ、いい。目が覚めたんならメシにしないか?パンと卵くらいしかないが」
「あ、じゃあオレ、作ります!キッチン、貸してください」
 オレは言ってブランケットをソファーに置いて立ち上がる。大佐に続いて広いキッチンに入れば大佐が冷蔵庫を開けながら言った。
「じゃあ、目玉焼きを作ってくれ。それなら簡単だろう?私はトマトでも切るから」
 大佐は冷蔵庫から取り出した卵とベーコンをオレに手渡す。オレはフライパンを温めるとベーコンを並べた。
「いつも朝飯は自分で作るんスか?」
 慣れた手つきでトマトをスライスする大佐を横目に尋ねる。大佐はバリバリと剥いたレタスと一緒にトマトを盛りつけながら答えた。
「いや、よくてコーヒーだけだな。大体ぎりぎりまで寝てるから」
「朝からちゃんと食わないと頭回んないっスよ……卵、両面?片面?」
「片面で。……仕方ないだろう、夜遅くまで本を読んでると起きられないんだ」
 オレは割り入れた卵を蒸し焼きにする為に蓋をする。大佐はコーヒーメーカーにパチンとスイッチを入れ、パンをトースターに入れて温め始めた。
「頭の固い古株のじじい共とつきあうには頭が回らないくらいの方がいいんだ」
「またそんな事言って……」
 さりげなく酷いことを言う大佐にオレは苦笑する。でも、あながちそれが間違いじゃないところがなんだかおかしくてそのままクスクスと笑っていれば、大佐がオレの手元を見て言った。
「おい、焼きすぎるなよ。堅い卵はごめんだぞ」
「あ、はいはい」
 慌てて蓋を開ければ丁度良い具合に焼けている。オレは卵とベーコンを皿に盛りつけるとダイニングに運んだ。ベーコンの香りとコーヒーの香りが食欲を刺激して腹の虫がグゥと鳴く。大佐はそれに目を細めて笑うとオレを促してテーブルについた。
「簡単だがこれくらい食べておけば頭も回るだろう?」
「そうっスね」
 悪戯っぽく言う大佐にオレも笑って頷く。それでもベーコンエッグも温めたパンもなかなかに美味しくて、オレはとても満足だった。
「片づけちゃいますね」
 急いで食べてしまうとオレは食器を手に立ち上がる。大佐はオレに向かって手を振って言った。
「そのままでいい。お前、一度帰るんだろう?」
「そうだった……」
 言われてみれば昨日の格好のままだったと気づく。さっさと帰れと言ってくれる大佐の言葉に甘えて、オレは申し訳ないと思いながら汚れた食器をそのままに家に帰る事にした。
「すみません、大佐。泊めて貰ったのにいい加減で」
「気にするな。遅刻するなよ」
「はいっ、じゃあまた後で!」
 オレはピッと敬礼をして大佐の家を飛び出す。朝の光が降り注ぐ道をアパートに向かって走りながら、オレはなんだか清々しい気分でいっぱいだった。


 アパートに帰ってシャワーを浴びて着替えると、オレは急いで司令部に向かう。ギリギリセーフ、遅刻せずに司令室に入るとオレはもうとっくに来ていたブレダ達に声をかけた。
「おはよっス」
「うーす」
「おはようございます」
 返ってきた答えに笑って返して、オレは自席に腰を下ろす。すっかり短くなった煙草を灰皿に押しつけて、新しい煙草に火を点けながらオレは考えた。
(夕べ……夕べは本当にどうしたんだっけ?)
 さっきは目が覚めたばっかりで頭が回らなかったけど今なら思い出せそうだ。
(メシも食ったし)
 と、今朝大佐に言ったことを思い出してオレはクスリと笑う。書類も広げず頬杖をついてオレは夕べの事を順番に追っていった。
(店に行って、少ししたらハリソン大佐が来て……話をしたんだよな)
 話した内容まで思い出せば腹が立つのは判っているからその辺はなるべく思い出さないようにする。それでもやはり胸がムカつくのは押さえられず、オレは気持ちを宥めながら記憶を辿った。
(……そうだ、大佐に会いたくなって、大佐のとこに行ったんだった)
 漸く大佐のところにいた理由を思い出せば次々と大佐と交わした会話が浮かんでくる。もしかしてかなり恥ずかしい事を言ったんじゃないかと冷や汗を浮かべた時。
『そんな顔をするな』
 そう言った大佐の顔が思い浮かぶ。それと同時に重なってきた唇の感触が不意に思い出されて、オレは大声を上げて椅子から飛び上がった。
「うわあッッ!!」
 勢いよく立った拍子に椅子がガタンッと背後に倒れる。顔にカアアッと血が上るのを感じながらオレは手のひらで唇を押さえた。
「どうしたよ、ハボ」
 向かいの席から声が聞こえて視線を向ければブレダが怪訝そうな顔でオレを見てる。ブレダだけじゃない、フュリーもファルマンもいきなり大声を上げたオレを驚いて見上げていることに気づいて、オレは顔をひきつらせて笑うと椅子を起こして腰を下ろした。
「ごめん……ちょっとウトウトしちゃって」
「朝一番からしっかりしてくださいよ、少尉」
「昨日は飲み過ぎですか?」
 オレの言葉に皆が呆れたように言いながら笑う。オレはそれにボリボリと頭を掻いて答えたが、皆の注意がオレから逸れるとそっと唇に触れた。
(キス……した、よな?)
 オレは信じられない思いで考える。信じられなかったけどでも唇に残る感触は確かに本物で、オレはゴクリと唾を飲み込んだ。
(でも……大佐、何にも変わらなかったじゃん……)
 どういうつもりで大佐がオレにキスしたのか判らないけど、大佐の様子は普段となにも変わらなかった。
(そりゃ確かにオレ……ちょっと忘れてたけど)
 目が覚めたら突然大佐の家にいたんだ。ちょっとばかりパニクって記憶が混乱したって仕方ないじゃないか。
(それとも……夢だったのかな)
 唇に残るリアルな感触も単なる思いこみかもしれないと思い始めると、途端に自信がなくなってくる。
(大佐に……聞いてみる、かな……、オレにキス、しましたかって)
 そんな事を考えれば恥ずかしくなってカーッと頭に血が上る。
(うわぁ、どうしよう……ッ、オレ、大佐とキスしたのかっ??)
 すっかり混乱してあのキスが本物だったのかそうでないのか訳が判らなくなってきた時、司令室の扉が開いて大佐が入ってきた。
「おはようございます、大佐」
「ああ、おはよう」
 かかる声に答える大佐を見上げれば、黒い瞳と視線が合う。
「遅刻しなかったな」
 大佐は薄く笑ってそう言うと、執務室に入ってしまった。
(き……聞けない……)
 とてもじゃないが恥ずかしくて聞けるわけない。それにもし違ったら、まるでオレが大佐にキスして欲しがってるみたいじゃないか。
(キス……して欲しいのか、オレ……)
 唇に残る感触は決して嫌なものではなくて。
「ああ、もうっ!訳判んねぇッ!」
「っ?ハボック?おい、大丈夫か?」
 ガシガシと頭を掻き毟るオレをブレダ達が気味悪そうに見る。そんな視線も気にならないほど、オレは混乱しきっていた。


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