辿り着くはパナケイアの空  第二十一章


「おはようございます、大佐」
 執務室の扉を開いてオレは中の大佐にそう声をかける。大佐は例によってほんの一瞬眉間に皺を寄せたけど、コーヒーのいい香りに目を細める。大きな机の上、積み上げた書類の横にカップを置くと、大佐はありがとうと一口飲んでから言った。
「夕べはちゃんと帰れたか?」
「やだなぁ、大佐。当たり前っしょ」
 夕べは前日の疲れがたまっていたのか、食事が終わる頃になって急激に眠気に襲われてしまった。ちょっとばかりうつらうつらしてしまっただけなのに、まるで子供相手に言うような言葉にオレが下唇を突き出せば、大佐はオレの口元をじっと見た。
「なに?なんかついてます?」
 オレは言って唇を手の甲でゴシゴシとこする。大佐はそんなオレに眉を顰めて言った。
「そんな事してもとれんよ。ほら」
 そう言ってチョイチョイと指先で呼ばれて、オレは机に手をついて大佐の方へズイと顔を寄せた。
「……目、瞑ってろ」
 あまりに近い距離に大佐が言って苦笑する。オレは言われるまま目を閉じて大佐が取ってくれるのを待った。
「大佐ぁ?まだ?」
 なかなか触れてくる気配がないことを不思議に思ってオレは言う。そうすれば「待て」と声がして濡れた感触が唇に触れた。
「ッ?!」
「動くな」
 ちょっとびっくりして目を開けようとすれば唇に息がかかる距離で大佐が言った。
(うそ、近ッ)
 さっきよりもっと近くに大佐の気配が感じられて何故だかドキドキする。濡れた何かが二度ほどオレの唇をなぞったと思うと大佐が言った。
「もういいぞ」
 言われてオレは弾かれたように机から体を起こす。キョトンと目を丸くする大佐に、オレはコーヒーを載せてきたトレイを胸に抱き締めて叫ぶように言った。
「ありがとうございましたッ!失礼しますッ!!」
 そうして大佐の返事を待たずにクルリと背を向けて執務室の扉に向かう。部屋を出て扉を閉めようとチラリと背後を見れば、閉まっていく扉の間にそっと自分の唇に触れる大佐の姿が見えた。
(なん……だったのかな、あれ……)
 夕べうつらうつらとした時に感じたものと似ている気がしてオレは唇に触れてみる。でも、そうしたところで何か判る筈もなく、オレはふるふると首を振った。
(仕事仕事!今日は心猿亭に行かなきゃなんだから)
 昨日たっぷり楽しく過ごした分、しっかりと働いて少しでも早く問題を解決しなくては。
 オレはそう考えながら自席に腰を下ろし書類を広げた。


 その後数日おきに心猿亭に二度ほど行ってみたがフォード大尉の隊の連中とは会えなかった。それとなくバーテンに聞いてみると、どうやらオレがここに来るようになった少し前に酔客と揉め事を起こして、少々飲み歩くのを自粛しているらしい。
(こんな時に自粛しなくても)
 一刻も早くハリソン大佐の思惑を知りたいのに、とオレが苛々とカウンターを指で叩いた時。
「あ、ほら。あの人達ですよ、フォード大尉の隊の」
 そう言ってバーテンがそっと指さす先を見れば屈強な体つきの男達が五、六人連れだって入ってくる。男達はオレから少し離れたテーブルにつくと、早速ビールの大ジョッキを頼んでガバガバと飲み始めた。
(さて……どうしようかな)
 なんと言って声をかけたものか、オレは暫し考える。新しいビールを頼むとそれを手にカウンターから離れ、男達のテーブルに近づいた。
「よう」
 オレは人懐こい笑みを浮かべながら声をかける。「なんだ?」と見上げてくる男達の顔を見回して言った。
「アンタら、フォード大尉んとこの人っしょ?」
「……だったらなんだよ──、っと」
「いいよなぁッ!」
 不信感丸出しで言いかけた男の言葉を遮ってオレは男の肩を掴む。ズイと顔を寄せて男の顔を覗き込むようにしてオレは言った。
「やっぱ下につくならああいう人がいいよね。フォード大尉みたいなさぁ。腕もいいし、部下思いだし」
「……まあな」
 自分達の隊長を良く言われれば悪い気はしないらしい。途端に和むその場の雰囲気に、オレは近くの椅子を引き寄せて男達の間に座り込んだ。
「フォード大尉って凄いひとなんだろう?勇猛果敢で腕っ節も強くて」
「ああ、隊長と一緒ならどんな危険な任務も心配ないっていうか」
「そうそう、この間だってさ」
 オレが一言言えば男達は嬉々として話し始める。一頻(ひとしき)りフォード大尉の話で盛り上がった後、オレは何杯目かのビールを飲みながら言った。
「でもさ、ああいう人を部下にしてるならその上の人もすげぇんじゃないの?ええと……」
「ハリソン大佐か?」
「ああ、そうそう」
 詰まったフリをすればすぐさま聞きたい名前が出てくる。男達は酔って赤くなった顔を綻ばせながら言った。
「ちょっと偉ぶってるところもあるけどな、いい上官だよ」
「この間も任務が上手くいったからって飲みに連れていってくれてさ」
「へぇ、気さくな人なんだ」
「ちょっと押しつけがましかったけどなぁ」
 と言って男達が笑う。そうやって自分達の上官の話をしていた男達は、漸く思い至ったように言った。
「そう言うアンタは誰の下についてるんだ?」
やっと聞いてきたと思いつつオレは口を開く。
「んー、オレか?」
 すぐには答えずちびちびとビールを舐めれば男達は焦れたように言った。
「なんだよ、隠すことないだろ?」
「別にそんなんじゃないけど……」
 オレはそう言って男達をチラリと見る。ビールのジョッキをテーブルに置いてため息混じりに答えた。
「ロイ・マスタング大佐だよ」
「っ?って、あの焔の錬金術師の?」
「うん、そう」
 聞かれて頷けば、途端に男達が興味津々で身を乗り出してきた。


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