辿り着くはパナケイアの空  第二十章


「あーあ……疲れた……」
 心猿亭からアパートに戻ったオレはポケットから取り出した鍵で扉を開け中に入る。欠伸混じりに呟いてドサリとソファーに腰を下ろしてぼんやりと天井を見上げた。
 今夜はフォード少尉の隊の連中は来ていなかった。それでもオレがバーテンに話しているのに興味津々で聞き耳を立てている奴らがいたから、いずれ何か反応があるかもしれない。思ってもいない大佐の悪口を言うのはエラく神経を消耗してオレは自然と落ちそうになる瞼を引き上げて立ち上がる。さっさとシャワーを浴びて寝てしまおう。オレは欠伸を連発しながら眠い目を擦りこすり浴室へと向かった。


「おはよ」
「あ、おはようございます、少尉」
 司令室に入ったオレが先に来ていたフュリーに声をかければ元気な声が返ってくる。込み上がる欠伸を噛み殺しながら腰を下ろすオレにフュリーが可笑しそうに言った。
「眠そうですね、少尉。昨日は飲み過ぎですか?」
「んー」
 コキコキと首を鳴らしたオレが答える前に、ガチャリと執務室の扉が開いて大佐が顔を出した。
「ハボック」
 一言オレを呼んで大佐はすぐに引っ込んでしまう。オレはその素っ気なさに眉を顰めて立ち上がると閉じてしまった扉に向かった。
「入りますよ」
 ノックもせずに扉を開けて執務室に入るオレを大佐が睨んでくる。その不機嫌の理由が判らず首を傾げて大佐を見つめるオレに大佐はため息をついた。
「今日の橋梁工事の視察だがその前に寄りたいところがある」
「判りました、三十分早く出るんでいいっスか?」
「ああ」
「用事はそれだけ?」
「……ああ」
 そんな内容ならわざわざ執務室で話さなくても顔を出した時に言えばいいのに。そう思いながら執務室を出ようとすれば背後から呼ぶ声にオレは足を止めた。
「なんスか?」
 なんだ、やっぱり他に用事があるんじゃないか。大佐の言葉を待ってその黒い瞳を見つめれば大佐が困ったように視線を逸らした。
「大佐?」
 大佐が自分から目を逸らすなんて珍しいこともあるもんだ。不思議に思って大佐を呼べば大佐はオレに視線を戻して躊躇いがちに口を開いた。
「その……夕べはデートだったのか?」
「へ?」
 突然そんな事を聞いてくるから思わず大佐の顔をじっと見つめてしまう。そうすれば大佐は慌てたように手を振って言った。
「ああ、いや、つまらん事を聞いた。用事はそれだけだ、下がってよし」
 大佐は早口に言って書類を取り出す。まるでオレを無視するように書類に向かう大佐を、オレは首を傾げて見つめながら言った。
「デートなんかじゃないっスよ。ちょっと用事があっただけで」
 オレの答えに大佐が書類に向けていた顔をパッと上げる。大佐を見つめるオレと視線が合った途端、大佐がホッとしたような表情を浮かべた。
「なんだ、用事があったのか、そうか」
 安心したように言う様子がなんだか可笑しくて、オレはクスリと笑う。そうすれば途端にムッとする大佐にオレは笑みを浮かべて言った。
「夕べは付き合えなくてすんませんでした。お詫びに今夜はオレが奢るっスよ」
 本当は今日も心猿亭に行った方がいいのだろうとは思ったけど、二晩も続けて心にもない大佐の悪口を言い続けるのは正直しんどい。そう思いながら言えば大佐が嬉しそうに笑った。
「だったらあそこがいいな。ほら、牡蠣を食った店があったろう?」
「ああ。じゃあ土手鍋でも食いますか」
「旨そうだ」
 仕事もろくに始めないうちからこんな話をしているのを中尉にでも聞かれたら、思い切り嫌な顔をされそうだ。でも、仕事が終われば楽しい時間が待っていると思えばやる気だって起きるじゃないか。オレは大佐と今夜の食事の約束を交わして執務室を出た。


「寄りたいとこって菓子買いにっスかぁ?」
「悪いか」
「悪いかって、アンタね……」
 オレはハンドルの上にへたり込みそうになるのをこらえてハンドルを握り直す。わざわざ寄りたいところがあるなんて言うからどこかと思えば、行き先がお気に入りの洋菓子店だと言うんだから呆れるなという方が無理だ。それでも言うとおりに店に寄ると大佐は嬉々として菓子を買い込んでくる。菓子を片手に視察に行く軍人なんて見たことないと思いながらも、オレは大佐を本来行くべき場所へ送り届けた。


 橋梁工事の視察が終われば司令部に戻った大佐は相変わらず山と積まれた書類に埋もれる事になる。ぶつぶつと文句をたれる大佐をコーヒーと夜の食事で宥めすかして仕事につかせたオレは、自分の書類を片づけようと席についた。
(まあ、大佐の気持ちも判らないでもないけど)
 これっぽっちの書類でもうんざりするんだ、あの書類の山には文句の一つも言いたくなるだろう。
(なんて事考えてる場合じゃない、さっさと片づけちゃおう)
 そうすれば後は大佐と楽しく過ごせる。そう思うだけで目の前の書類仕事も苦でなくなるから現金なものだ。
「少尉、なんだか楽しそうですね」
 カリカリとペンを走らせるオレを見てフュリーが言う。
「そう?」
「ええ、とっても」
 そう言われてオレは首を傾げた。大佐との時間を思うだけでこんなに心が弾むのは何故だろう。女の子とのデートの前ですらここまでじゃなかったのに。
(まあいいか。それより早く片づけなくちゃ)
 なんだか深く考えない方がいい気がして、オレは余計な思考を閉め出すと書類を片づけるのに没頭した。


 何とか頑張って書類を片づけた頃、大佐も執務室から顔を出す。伺うように見上げれば笑みを浮かべる大佐にオレはいそいそと立ち上がった。
「もういいのか?」
「はいっ」
 聞かれて元気いっぱい答えるオレに大佐の黒い瞳が優しく笑う。それだけでなんだか嬉しくて、オレは司令室を出ていく大佐の後をウキウキしながら追いかけた。
(ご主人さまが大好きな犬みたいだ)
 ふと、自分の事がそんな風に思えておかしくなる。フフ、と小さく笑えば大佐が不思議そうにオレを見た。
「どうした?」
「や、オレって犬みてぇって思って」
 そう答えれば大佐は一瞬目を丸くしたがその目を細めてクシャリとオレの髪をかき回した。
「行こうか」
「はい」
 行って歩き出す大佐に続いて、オレは司令室の玄関を出て店へと向かった。


 その夜はいつにも増して楽しかった。オレたちは大いに食って飲んで、そしてたくさん話をした。幾ら話しても話す事は尽きなくて、瞬く間に時間は過ぎてしまう。オレはくたんとテーブルに頬をつけてハアとため息をついた。
「もう、帰る時間?大佐……」
「そうだな。明日もあることだし」
「ちぇ……」
 今日が最後じゃないのは判ってても終わるのは淋しい。子供のように唇を尖らせて目を閉じれば急激に眠気が襲ってきた。夕べの疲れが今頃になって出てきたのかもしれない。
「おい、ハボック、こんなところで寝るな」
 苦笑混じりに降ってくる大佐の声が心地よい。このままずっと聞いていられればいいのに。
「ハボック、おい?……まったく、困った奴だな」
 大佐はそう言ってオレの髪を優しく指で梳く。気持ちよくてフッと眠りの淵へと転げ落ちそうになった時。唇に柔らかい感触を感じてぼんやりと目を開ければすぐ側に大佐の顔があった。
「たいさ……?」
 そう呼べば大佐の目が切なく細められる。どうしたの?何か辛いことあるの?そんな顔しないで、アンタはオレが守るから。
 切ない顔に胸が痛む。大佐にそんな顔させるものはなんなのか、尋ねる前に大佐がオレの頭を軽く叩いた。
「ほら、帰るぞ、ハボック」
「……はい」
 触れてきたのがなんで、大佐が何を言いたいのか、オレは尋ねる機会を逸したまま大佐の後を追って店を出た。


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