| 辿り着くはパナケイアの空 第十九章 |
| 夕方近くになって大佐がやっと帰ってきた。山積みの書類に向かうのかと思いきや、オレのところへとやってくる。なに?と視線を向けるオレに大佐が隣の椅子を引いて腰を下ろしながら言った。 「ハボック、今夜は時間あるか?」 「え?大佐、残業じゃないんスか?」 あの書類の山をそのままにして帰るつもりなんだろうか。そんなの中尉が赦さないだろうと思いながら尋ねれば大佐が答えた。 「もう疲れた。二時間で終わるはずの会議が倍だぞ。やってられるか」 言って秀麗な顔にげんなりとした表情を浮かべる。その顔を見て思わずオレはクスリと笑った。 「そんな顔したら折角のいい男が台無しっスよ」 そう言って目の前の顔に手を伸ばす。眉間に出来た皺を伸ばすように指を滑らせれば黒い瞳が大きく見開いた。 「ハボック……」 「え?……わわっ、ごめんなさいッ!」 オレは自分がしていることに気づいて慌てて手を引っ込める。オレってばなにやってんだろう。驚きに見開いた目で見つめられれば見る間に顔が紅くなっていくのが判る。オレは机に広げてあった書類をガサガサと集めて抽斗に放り込むと慌てて立ち上がった。 「オレ、今日は野暮用があるっスから!大佐は残業してってください!」 「えっ?おい、ハボック?」 「お先に失礼しますッ!」 オレはそう叫んで司令室を飛び出す。背後に大佐が呼ぶ声が聞こえた気がしたが、オレは振り向かずに廊下を走り抜けた。正面玄関をくぐったところでオレは漸く足を緩める。これっぽっち走っただけなのに心臓がバクバクと音を立てて煩いほどだった。 「なにやってんの、オレ……」 オレは呟いて自分の指先を見つめる。そうすれば以前同じように大佐がオレの眉間の皺を伸ばそうと触れてきた事を不意に思い出した。あの時のひんやりと冷たい指先を思い浮かべて自分の眉間に触れてみる。大佐のそれとは違う温かい感触に逆に皺が寄ってしまった。 「大佐、変に思ったかな……」 そう呟くオレの脳裏に大佐の黒い瞳が浮かぶ。その途端収まりかけていた心臓が再びバクバクと言い出して、オレは慌てて首を振った。 「今は大佐の事を考えてる場合じゃないって」 とにかく一刻も早くハリソン大佐がなにを考えているのか探らなくては。せっかくの大佐の誘いも断ったのだから少しは進展がないことにはやってられない。オレはギュッと手を握り締めると司令部の門を出て通りを歩いていった。 心猿亭は繁華街の中でもあまり柄のよくない場所に建っている。すれた雰囲気を漂わせる女たちが客引きに立つ通りを抜けて、オレは店の前に立った。 この店には一度だけ来たことがある。安くて旨いと聞いて来たのだが、やたらと脂っこいそれに胸が灼けてろくに食べられず、それ以来来たことはなかった。 オレは店の扉を開けて中に入る。さっと店の中を見回したもののまだ時間が早いせいか客は疎らで目指す姿もなかった。それでもオレは奥のカウンターに陣取るとビールとつまみを注文する。出てきたビールを飲みながら時間を過ごせば、いつしか店は喧噪に包まれていった。ここの客層は軍の中でも特に若い連中が多いようだ。そうなれば酔って話すのは女の事か上官への不満が大半で、聞こえてくるのもそんな話ばかりだった。 「お客さん、ここは初めて?」 不意に話しかけられてオレは落としていた視線を上げる。そうすればカウンターを挟んでグラスを拭いていたバーテンがオレを見ていた。 「ああ……随分前に一回来たことがあるけど」 「覚えてて来てくれたんだ」 そう言われてオレは少し考える。ビールのジョッキを両手で包み込んでビールの泡を見つめながら答えた。 「まあね……オレの隊の連中とか、知り合いがいなさそうなとこってここくらいしか思いつかなくてさ」 ため息混じりにそう言えばバーテンが言った。 「なに?仕事関係で揉め事でも?言っちゃいなよ、ここなら何言っても大丈夫だから」 客の愚痴を聞くのも仕事とばかりにそう言うバーテンをオレはチラリと見る。迷うようにジョッキに残ったビールを飲み干せば、頼んでもいないのに新しいジョッキが目の前に置かれた。 「奢り。嫌な事は酒を入れる代わりに吐き出していく。それがこの店だから」 言ってニヤリと笑うバーテンにオレも笑い返す。新しいジョッキを掲げて礼を言うと一気に半分程も飲み干した。 「オレ今ある人の護衛についてんだけど、これが結構難物でさ」 「へぇ、護衛がつくくらいなら結構偉い人なんだろ?」 「まあね、多分アンタも知ってると思うけど」 「えっ?俺も?誰?」 知っていると言われれば聞きたくなるのが人間の心理らしい。バーテンは手にしたグラスを置くと身を乗り出すようにしてオレの顔を覗き込んだ。 「んー、そうだなぁ」 「いいじゃん、言えよ。ここだけの話にしておくから」 渋るオレをバーテンが促す。オレはきょろきょろと辺りを見回してからバーテンの方へ身を乗り出した。 「焔の錬金術師。知ってるだろ?」 「焔の錬金術師ッ?!アンタ、あの人の護衛してんのかッ?!」 「ちょっと声デカいって」 オレは慌てて口の前に指を一本立てて大きな声を上げるなと合図しながら辺りを見回す。すぐ側に座る男がオレとあった目を慌てて逸らすのに気づかぬフリでバーテンを見れば、バーテンが申し訳なさそうに頭を掻いた。 「ごめん、ついびっくりして」 「もう」 睨むようにバーテンを見るオレにバーテンは「お詫び」と言いながら新しいグラスを出してくる。遠慮なくそれを受け取るオレにバーテンが言った。 「難物なんだ、焔の錬金術師って」 「まあねぇ」 オレはため息混じりに頷いてビールを煽る。オレはその晩、バーテン相手に大佐を護衛するに当たっての愚痴をしゃべり続けたのだった。 |
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