| 辿り着くはパナケイアの空 第十三章 |
| 「あれ?大佐は?」 コーヒーのカップを載せたトレイを手に執務室の扉を開ければもぬけの殻の室内に、オレは司令室に残っていたフュリーに尋ねる。フュリーは書いていた書類から顔を上げて答えた。 「僕が戻ってきてからは出ていったとこは見てないです」 「それって何分くらい前?」 「さあ……三十分くらいですかねぇ」 中佐のところに電話を入れた後、なんだかムシャクシャして射撃場に寄ってきた。苛々を全部弾に乗せてぶっ放して漸く少しすっきりして帰ってくれば、あの人ってばどこに行ったんだろう。机の上には相変わらず書類の山。その気になればあっと言う間に片づけられるということは既に証明済みだけれど、無駄に中尉の怒りを買うこともない。オレはトレイを机の上に置くと大佐を捜しに司令室を出た。 近くの休憩所を覗き資料室を覗いてみるが大佐の姿はない。 「となると……やっぱあそこか」 オレはそう呟いて階段を下り扉を抜ける。建物を出ればムッとする外の空気に顔を顰めてオレは中庭を歩いていった。垂れ下がった枝をひとつ押し退けてくぐり抜ければ大佐が木の幹に背を預けて座り込んでいるのが見える。伸ばした脚の上に本を載せたまま転た寝している姿は、初めて会ったあの時と何ら変わりはなかった。 「大佐」 近づきながらそう声をかけるが大佐は目を開けない。すぐ側に跪いてオレはその端正な顔を覗き込んだ。 「たいさ…?」 白い肌理の細かい肌に長い睫が陰を落としている。すっと通った鼻筋も、色素の薄い唇も、切れ長の瞳も、全てが完璧で、その上頭も滅茶苦茶に良くて、世の中にはこんな風に神様に愛された人間もいるんだなぁと思いながら見つめていれば、不意に大佐の唇が動いた。 「ハボック」 まるでオレがそうして覗き込んでいる事に気づいていたように呼ぶ声にドキリとする。慌てて身を引こうとするオレの腕を大佐の手がガッチリと掴むと同時に大佐が目を開いた。その綺麗な黒曜石に間近から見つめられてオレは息が止まりそうになる。それとは反対に心臓がドクドクと大きな音を立てて忙しなく動いて、オレは体を駆け巡る血液で顔が真っ赤になるのを感じた。 「ハボック」 極間近で大佐がオレを呼ぶ。その途端凍り付いていた体がビクッと跳ねて、オレは慌てて体を離して言った。 「もうっ、起きてるならもっと早く返事してくださいよ」 びっくりした、と言いながら立ち上がろうとしたが腕は相変わらず大佐に掴まれたままだ。なんだか振り解くのも躊躇われてオレは困りきって大佐を見つめた。 「大佐、腕」 そう言えば大佐がオレの腕を見る。がっしりと掴んだ自分の手を見つめてそれからもう一度オレを見て言った。 「引っ張ってくれ、ハボック」 「いいっスけど」 立ち上がるのに手を貸すのは構わないが掴まられているのが腕だとやりにくい。こっち、と手のひらを振れば腕を掴んでいた手が離れてオレの手を掴む。オレは立ち上がると手を引っ張って大佐が立ち上がるのを助けた。 「仕事ほっぽって何やってるんスか。中尉、そろそろ戻ってくる頃っスよ」 オレは大佐が立ち上がったのを見ると急いで大佐の手を離す。大佐の手を握っていた手のひらが冷たい気がしてそっと胸元に引き寄せるオレを、大佐はじっと見つめていたが本を拾い上げて言った。 「書類書類でいい加減飽きるな。何か面白い事でもないか?」 銀行強盗とか、と物騒なことを言う大佐にオレは思わず笑ってしまう。 「馬鹿なこと言ってないで───」 そう言いながら大佐を見れば黒曜石の瞳がオレをじっと見つめているのに気づく。オレは慌てて視線を逸らすと木々の間の隠れ家から外へと出ながら言った。 「ほら、急いでください。あの書類の山見たら中尉、カンカンっスよ」 オレは振り向きもせずそう言うと、大佐が後からついてきてるかどうかも確認せず逃げるように建物の中に戻った。 それから暫くは何事もなく過ぎていく。大佐は相変わらずのらりくらりと仕事をサボっては中尉の怒りが沸点に達するその前に書類を片づけるという芸当をやってのけていた。 「まったくもう、どうしてこう書類を溜めたがるんスか」 オレはそう言いながら決済済みの箱の中から取り出した書類をチェックする。大佐はもの凄い勢いで書類をめくりながら答えた。 「仕方ないだろう、ガソリン切れだ」 「ちゃんと買ってきてあげたじゃないっスか」 オレはそう言いながらまだ甘い匂いが残っているような気がする鼻に皺を寄せる。大好物のチョコクッキーが切れたから仕事が進まないと子供のような事を言う大佐の為にもう何度もあの店に行かされたが、どうにもあの甘ったるい匂いには慣れる事が出来なかった。 「自分で買いに行くと言ったのに」 「アンタ行かせたら永遠に帰ってこないじゃないっスか」 この人に菓子を買いに行かせたりしたら絶対喫茶コーナーで寛いでくるに決まってる。オレがジロリと睨めば大佐は首を竦めてガリガリと書類にサインを書き込んだ。 夕方になって漸くサインし終えた書類を提出してくると、オレはやれやれと自席に腰を下ろす。大佐に付き合ってたおかげで自分の書類が手つかずで、オレはため息をつくとペンを手に書類をめくった。 「結局しわ寄せはオレにくるんだよな……」 そう呟きながら文字を書き込んでいく。文句を言ったところで今ある書類がなくなるわけではないのでオレは口を閉じると書類に集中した。 仕事を終えたブレダ達がそれぞれに帰っていくのにおざなりに手を振ってオレは書類を書き続ける。そのまま仕事に没頭していれば、不意に書類に影が射してオレは顔を上げた。 「大佐」 気がつけば大佐が側に立ってオレを見下ろしている。「なに?」と首を傾げれば大佐が言った。 「まだだいぶかかるのか?」 「いや、後少しっス。あ、車っスか?今回して貰いますから」 そう言って受話器に伸ばすオレの手を大佐が押しとどめる。尋ねるように見上げれば大佐が言った。 「一緒にメシでもどうかと思ってな。デートの予定がないのなら、だが」 「デートの予定なんてないっスよ。オレ、今彼女いないっスもん」 いた時期もあったがどれも長続きしなかった。如何せん忙しすぎるのだ、この仕事は。連絡も出来ずにデートをすっぽかしたり、いきなり何日も音信不通になるような男に女の子はいつまでも構ってはくれない。 「意外だな。少尉なら可愛い彼女の一人や二人いそうなもんだが」 「……そう言いながらオレに残業させてんのは誰っスか?」 毎日こんなじゃデートの予定なんてたてられる筈ないじゃないか。オレがそう訴えれば大佐が苦笑して言った。 「そう言うな、一応感謝してるんだ」 「いちおう?」 そう言って眉間の皺を深めれば大佐が楽しそうに笑う。大佐は手を伸ばしてオレの眉間に触れると皺を伸ばすように撫でながら言った。 「後少しなら早く終わらせてしまえ。一緒にメシを食いに行こう」 そう言って笑う大佐の顔にオレはドキリとする。 「アイ・サー」 オレは大佐の手から逃れるように顔を俯けると、赤らんでくる頬を隠すように顔を書類に近づけてペンを動かし続けたのだった。 |
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