凌霄花(のうぜんかずら)の宿  第六章


 その日以来、私は毎日屋敷に通うようになった。時間は昼であったり夜であったりまちまちだったが、元々勤務時間などあってないような職場だ。好き勝手な時間にふらりと出ていく私に、李紗(リザ)が目を吊り上げて言った。
「所長、いい加減になさって下さい」
「いい加減とはどういう意味だね?」
 今日も早々に仕事に見切りをつけて帰り支度をしていれば、李紗(リザ)は私の机にドサリとファイルの束を置く。
「ボランティアも結構ですが仕事もして頂かないと困ります」
「仕事ならうちには君を始め優秀な所員がたくさんいるんだから問題ないだろう?」
 実際のところお世辞などではなく私の部下達は優秀だ。何も私が手を出さずとも彼らだけで事務所の仕事は十分にこなしていけている筈だった。
「所長でなければ出来ない仕事もあります」
 李紗(リザ)は言ってファイルの中から書類を数枚取り出す。私は一瞬書類に目を落としたが、李紗(リザ)の鳶色の瞳を見つめてにっこりと笑った。
「すまんが断ってくれ」
「所長!」
「依頼を全て引き受ける必要はないだろう?」
 ここは個人の探偵事務所だ。今までだって入ってきた依頼を全て受けてきたわけではない。特に私を指名して来る仕事は、私の気が向かなければ断ることが多かった。
「そんなわけで後は頼むよ」
「所長!」
 私は言って片手を上げるとこれ以上李紗(リザ)の小言を聞く前に、そそくさと事務所を後にした。


「こんばんは」
増田(マスタング)さん」
 細い階段を上って二階に上がれば部屋の隅に蹲るようにして(ジャン)が本を読んでいた。(ジャン)は私を見ると投げ出していた足を引き寄せきちんと正座して居住まいを正す。覆いを被せたランプの光は部屋の中を照らすには暗すぎて、本を読むにはよくないと思えた。
「お前はまたこんな薄暗いところで」
「あっ」
 私は言ってランプの覆いを引き上げる。(ジャン)が極力この屋敷に人が住んでいる事を外から判らないようにしようとしていることは知っていたが、それがどうにも気に入らなくて私は言った。
「ここにお前が住むことはちゃんと了解を取ってあるんだ。そんなにコソコソする必要はない」
 私がそう言えば(ジャン)は困ったように俯く。私は軽く首を振って言った。
「今日は南蛮漬けを持ってきたぞ」
「なんばんづけ?」
 言いながら腰をおろすと私は持ってきた風呂敷を広げる。握り飯や漬け物と一緒に南蛮漬けを出せば、(ジャン)が覗き込んで言った。
「魚?」
「揚げた魚を唐辛子や葱を加えた合わせ酢に漬けてあるんだ。旨いぞ」
 そう言って勧める私をちらりと見て、(ジャン)は魚に手を伸ばす。恐る恐ると言った風に口にしたと思うとパッと顔を輝かせた。
「旨いっス」
「だろう?」
「はい」
 (ジャン)はにっこりと笑うと旨そうに箸を動かす。少しして箸を置くと私を見て言った。
「すんません、毎日毎日……増田(マスタング)さん、オレにこんな事する義務も何もないのに」
「迷惑か?」
増田(マスタング)さんが迷惑だろうって言ってるんです!」
 尋ねれば弾かれたように(ジャン)が答える。
「好きでやってるんだ。気にするな」
 ランプの焔に揺れる空色の瞳を見つめて私は答えた。私は(ジャン)のすぐ側に置いてある本に目をやってふっと微笑む。
「この間の本か?」
「あ、はい。面白いっス、とても」
 ここから出たがらない(ジャン)にとって、一人の時間は退屈だろうと私は(ジャン)とこうして過ごす様になってすぐ、本を持ってきてやっていた。食事の後には本の内容を話しあったり、町での出来事を話して聞かせてやったり。(ジャン)が言うように迷惑だなどと思ったことは一度もなかった。それどころか私にとって(ジャン)と過ごす時間は、今まで一度もないほど楽しく幸せな時間だった。それは本当に、とても、とても。


「今日は殊の外暑いな……」
 私は竹林の中を歩きながら呟く。いつものように扉を開いて中に入った私は、屋敷の中に入ろうとして向こうから聞こえた物音に引き戸にかけた手を止めた。なんだろうと、茫々と生えた雑草を踏みしめ建物を回って裏に出る。そうすれば(ジャン)が井戸の手押しポンプを押している後ろ姿が見えた。
「んっしょ!」
 古いポンプは堅くなっているのだろう、それでも水量は十分にあるようで、(ジャン)が体重をかけるようにしてポンプのハンドルをガチャンと押し込めば汲み上げられた水が井戸ポンプの水口からザバンとタライに落ちる。何度か繰り返してタライにたっぷり水を張ると、(ジャン)はハンドルから手を離し額の汗を手の甲で拭った。それから着ていた着物を脱ぎ下穿き一つになるとタライの水を使って水浴びを始める。太陽の光の中、気持ちよさそうに頭から浴びた水が(ジャン)のしなやかな体を流れていった。太陽にきらきらと金色の髪と水の滴を煌めかせて水浴びする(ジャン)はとても綺麗で私は目が離せなくなる。(ジャン)はタライの水がなくなるとハンドルを動かして水を汲んだ。何度目かに水を汲もうと立ち上がった(ジャン)は、目を上げた拍子に私が立って見ていることに気づいた。
「え…?う、わっ、増田(マスタング)さんっ?!いつからそこにっ?!」
 (ジャン)は驚いて叫ぶと脱いであった着物を引き寄せる。下穿き一枚の体を隠すようにして、(ジャン)は真っ赤な顔で私を睨んだ。
「いつから見てたんスかっ?」
「ああ、と…十分位前からかな。すまん、つい見惚れてしまった」
 私は正直に言って(ジャン)に近づく。金の髪からポタポタと滴を垂らしながら見つめてくる空色の瞳を見返して言った。
「今日は本当に暑いな。あんまり気持ちよさそうに浴びてるから声をかけ損ねてしまった」
「なんスか、それ」
 笑いながら言えば(ジャン)が頬を膨らませる。子供の様なその表情が可愛くて、私は笑みを深めて言った。
「もう少し浴びるのなら水を出してやるぞ?」
「や、もう十分っスから」
 (ジャン)はそう答えると着替えてくると言って屋敷の中に入っていく。私は井戸の堅いハンドルをガチャンガチャンと何度か動かして水を出すと顔を洗った。そうして屋敷の縁側に腰掛けて空を見上げる。夏の空に響く蝉の声を聞いていれば、少しして(ジャン)が戻ってきた。
「こんなところに井戸があるとは知らなかった」
「古いからちょっと堅いけど、ちゃんと使えるんスよ。洗濯とか水浴びなら十分っス」
 いつも(ジャン)がこざっぱりとしているのを見て不思議に思っていた。その秘密がこんな井戸にあったことを知って、私は言った。
「井戸の水は冷たいな。これからは私もここで水浴びさせてもらうか」
「何言ってるんスか」
 言えば呆れたように(ジャン)が笑う。太陽の下、笑う(ジャン)の笑顔に不意に愛しさが溢れて、私は思わず(ジャン)の頬に手を伸ばした。
増田(マスタング)さん…?」
 頬に触れる手に(ジャン)が空色の瞳を見開く。私は(ジャン)をじっと見つめて言った。
「私の家に来ないか?(ジャン)。部屋なら有り余ってるからお前の一人や二人住んだところで困らないぞ」
 そう言えば(ジャン)が僅かに目を見開く。それからゆっくりと首を振って言った。
「そんなことして貰う理由がないっスから」
(ジャン)
「これからどうするのか、いつまでもこうしてちゃダメっスよね」
 そんな事を言い出す(ジャン)に私はハッとして縁側から上がり、(ジャン)の腕を掴んだ。
「別にここから出ていけと言っている訳じゃない!お前がここにいたいのならずっといていいんだ!」
 私の言葉をこの屋敷にいてはいけないのだと(ジャン)が取ったのかと慌てて言い募る。そうすれば(ジャン)は驚いた様に目を見開いて私を見た。
増田(マスタング)さん」
「ここにいてくれ、(ジャン)。頼む」
 (ジャン)がここからいなくなる、そう考えただけで血の気が引いていくような気がする。私を見つめる空色を見つめ返しながら、私は漸く(ジャン)に惹かれている自分に気づいた。


→ 第七章
第五章 ←